キリスト教徒の目の鱗 -2ページ目

キリスト教徒の目の鱗

パウロが付けた新たな目の鱗

★ナイチンゲール

「人間はいつも神の奇跡を期待します。これは取りも直さず、神が特別に自らの法則を曲げて、私たちの責任を回避させて下さるのを願っていることになるのです。」

 

フロレンス・ナイチンゲール著
「看護覚え書き~何が看護であり、何が看護でないか~」

うぶすな書院
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「創造主である神がどう考えられるかに目を向けようではありませんか。神はご自身の方法の正しさを常に示されているのです。私たちがあれこれと考えている間にも、神は休みなく教え続けておられるのです。」(p.24)

「神はご自身の方法の正しさを常に示されているのです。神は教えようとなさっているのに、人間が学ぼうとしていないのです。哀れにも、ある者は指を失い、ある者は命を落とします。それもこれもすべては、極めて簡単に防げる原因からなのです。

神は確かな自然法則を定めておられます。神がこの法則を間違いなく遂行することで、私たち人間の責任(非常に乱用されている言葉ですが)というものも成り立っているのです。

なぜなら、結果の予見できない(神の法則の遂行が、もしも不確かなものなら結果は予見できないはずです)行為には責任の取りようがないからです。

それなのに人間はいつも神の奇跡を期待します。これは取りも直さず、神が特別に自らの法則を曲げて、私たちの責任を回避させて下さるのを願っていることになるのです。

『神のみ恵みによって彼は回復するであろう』というきまり文句があります。しかし正しくは、たとえ回復しない場合でも、それはやはり『神のみ恵み』なのです。

同様に、病気になるのも『神のみ恵み』であり、死ぬのもやはり『神のみ恵み『だということです。

言い換えればこうしたすべてのできごとは神の法則によって起こるのであり、その法則こそがまさに「神のみ恵み』なのです。すなわち、その法則の一切が、私たちを最大の幸福へと導く道を教示しているということです。

コレラにかかることも、またコレラを免れることも、等しく『神のみ恵み』なのです。それは私たちに神の法則にいかに従えぱよいかを教えるものです。

そしてこの神の法則こそは、私たち人間がより完全なあり方を目指して進むための方法となり糧となるものに他なりません。

『神のみ恵みによって彼は回復するであろう』というのは、健康や回復をもたらすために神が定めた方法を無視する人々の常套句なのです。」(p.25)

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