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週刊「楽しい酔っぱらい!」美味しいお酒をもっと楽しく!

酒を飲む人 花ならつぼみ さけよ さけさけ もっとさけ! (都々逸)

美味しいお酒で楽しく酔っぱらう…って最高の幸せです。
日本酒の話、ワインの話、ごはんの話、それらに関する興味深いトピックスを探して勝手にご紹介していきます。

仕事中、よくお客様から「東京の天ぷら」と「大阪の天ぷら」の違いについてを質問されます。

大阪では少なくとも明治の頃までは「天ぷら」というと魚肉の練り物をあげる「さつま揚げ」系の天ぷらをさしていたようです。

それに対して、そのころ(江戸時代後期~)東京では魚介類(=東京湾であがる小エビや小柱、メゴチやハゼ、穴子など)を「すり身」にせず、そのままで天ぷらにして食べていたと思われます。 

結論としては、現在の「天ぷら」は東京で出来上がったものですので、「天ぷら」という食文化は東京がその中心であると考えて頂いてよいかと思います。

また、油に関してですが、東京はほぼ例外なく「ごま油」を使用し、大阪は軽い「サラダ油」を使うことが多いです。

でも東京と大阪を比較するほど、大阪には「天ぷら専門店」や「天ぷら職人」は多くなく、また大阪の専門店でも東京で修行した方が調理する場合は、多少「東京的天ぷら店」になることもあり、「ごま油ベース」の油をお使いになっている様ですね。


で、今日は「うなぎ」の話です。

東京ではうなぎを「背開き」にして焼いてから、それをじっくりと蒸し上げ、その後、仕上げにもう一度炙るという非常に手間のかかる仕事を行います。 一方、大阪ではうなぎを「腹開き」したらそのまま焼いていきます。 これらをそれぞれ「江戸焼き」と「地焼き」とよんでいます。

江戸焼きしたうなぎは口の中でとろけるように「柔らかく」、なんとも上品な美味しさがあります。
一方、地焼きのうなぎは歯ごたえも適度にあり、「ガツガツ」食するのに適しており、「スタミナがつくぞ~!」っていう感じも含めて、これはこれで私の好物であります。

東西の「うなぎの開き方の違い」を論ずるとき、「大阪は商人の街だったから『腹開き』にしたが、江戸は武士の町だったので『切腹』を連想する『腹開き』を嫌い、うなぎを『背開き』にした」という説をよく耳にします。

まさにそうなのかもしれませんが、他の魚(いわゆる普通の海の魚)はやはり「お腹側」からさばくわけですから、ちょっと説得力に欠けるというか、それだけでは少し「足りない」なぁと感じておりました。  


本の名前と著者のお名前は失念してしまいましたが、池波正太郎「鬼平犯科帳」にでてくる料理を分析する本がありまして、その中に興味深い説が出てきます。

「関西は山と海が近く、川の水が濁らないので、うなぎが『泥臭く』なかったが、関東平野はひろく、川の流れがゆるやかなので当時の(天然の)うなぎは関西のものより『泥臭さ』があったので、丁寧に『蒸して』泥臭さを抜く必要があった。 そして『より高度な工夫(=蒸す作業)』が生まれた」と書かれていました。

天ぷらや寿司と同様、「鰻」の世界でも江戸の町でより洗練された技術が生まれたわけですね。

でも「背開き」と「腹開き」の違いについてはどういう説明が残るのでしょうか?

全くの私見なんですが…

白焼きした鰻を「蒸して」からもう一度「炙る」場合は、腹開きだと「串」が抜けやすく、うなぎを焼きにくいからではないかと思います。 腹開きだとうなぎの中心部分の身が厚くなり、背開きだと両端の身が厚くなります。

つまり、打った串の「グリップ力」を上げるためには、「背開き」した方がうまく調理できたのではないかと思います。 蒸したうなぎは柔らかいですからね。


ついでにお酒の話も少々…

ワイン好きなら、「蒲焼き」にはオーストラリアのシラーズ、「白焼き」なら適度にしっかりしたシャルドネがいいと思います。

日本酒なら、もちろんお好みによりますが、あまり香りの多すぎないもので、すっきりとしたものがいいのではないかと思います。 生酒でも「火入れ」でもお好み次第ですし、「純米」でも「アル添」でも大丈夫です。 ただし、「アル添」の場合は高価である必要はありませんが、上質な酒蔵のものを探していただきたいと思います。 


ところで、大阪では「うなぎの白焼き」は「わさび醤油」で食べるのが一般的なのですが、これって全国的にそうなんでしょうか? (ウスターソースって地域はないですよね 笑)

以前、三重県の津の人気のうなぎ屋さん(またまた名前は失念しました。)で白焼きうなぎをたっぷりのお葱としょうがを加えたポン酢でいただきました。 目から鱗でした。 それ以降、私は白焼きうなぎはポン酢で食べるのが一番美味しいと思っています。 





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子供の頃のお茶といえば、母親がやかんで沸かしてくれた香ばしい麦茶を思い出します。

旅行の際の記憶では、新幹線の中で、たしか五十円くらいでうすいビニールっぽいプラスチックのような紐付きのお茶を買ってもらった記憶があります。 

熱海に行ったときなどは、新大阪を「こだま号」出発し、もうすぐ「熱海」という少し手前、静岡駅で「ひかり号」に抜かされるですが、たしかその際に四分間ほど停車したはずです。 この静岡駅のホームには先ほどのお茶より少し上等なお茶が売っておりまして、たしか百円だったかと思うのですが、これは筒状の入れ物の底部に入った茶葉を揉み出すと濃いお茶になるというものでした。 

で、やっと今日の話が始まるのですが、いつの頃からか、お茶は淹れるものから「買う」ものに代わりました。 コンビニに行くと、ウーロン茶を筆頭に緑茶、麦茶、ジャスミン茶といろいろあります。 どれも結構美味しいですね。

食べ物屋を家業とする私としましては、出来れば自分の店でお出しするお茶は「ペットボトルのお茶よりおいしい」ものをお出ししなければならないと思うようになったのです。 
うちは安いお店ではないからもっと「上等」なお茶にしよう!っていうだけの安易な発想なのですが…


試行錯誤
「とにかく、やってみよう!」ということで、色々ためしてみまたのですが、デパートでいいお茶を買って来ても、普通のお茶との差がうまく出せません。美味しいことは美味しいのですが…

急須が悪いのか、それとも温度がおかしいのか? それとも自分の舌が未熟なのか?
たまには上手く淹れられても、次は美味しくなかったり… どうも合点がいきません。
最初は「いいお茶さえ買えばいいや」って軽く考えていた僕は困惑いたしました。

ある事務員さん(通称うーちゃん)
10年ほど前のある日のことです。両親の経営する店(やはり、天ぷら屋です)に居たときのことです。
接客係の人の「入れてくれるお茶」より、ひとりの事務員さんの「淹れてくれるお茶」が格段に美味しい事に気づきました。 決して高価なお茶ではないのですが、完全に「ひと味違う」のでした。

それをその事務員さんに伝えると、「ニヤリ!」と笑顔がかえってきました。 近頃の言葉でいうところの「どや顔」だったかと思います。

彼女曰く、「それは黄金の滴、英語でいうところのゴールデンドリップの効果ですよ。」

「まず、湯呑みに合わせて、急須に適量の茶葉とお湯をいれるやん。 必要なだけお茶を蒸らしたら、最後の一滴まで絞り切るねん。 最初と最後でお茶の濃さが違うのん。 最後の一滴が味をきめるんよ。」


で、写真のペリカン急須
時が経ち、今ではそのうーちゃんもご退職されたのですが、いろいろ探して、使ってみて、上の写真の「ペリカン急須」にたどり着きました。 
最後の一滴を絞り出す為のこの奇怪な形状は、愛情をもって接すると、なんとも愛しくなってきます。 
京都の岩倉で手造りでつくられるこの急須は、実は1万円くらいするのですが、蓋をうっかり割ってしまっても、不注意で欠けさせてしまっても、蔵元にお願いしたら金継ぎなどの修理をしてくださります。
(現時点では無料サービスのはずです。)
僕自身、何度もお世話になっています。 ほんと、一生使えます。 


今日こそは休肝日を設け、美味しいお茶でゆっくりと体を休めたいと思います。




 
天ぷらについて…

今日はわたしの本業である、「天ぷら」について、ちょっとおもしろいお話をご紹介いたします

関西の「天ぷら」というと「練り物」の天ぷらをさすことが多く、いまでも「和田八」さんや「大寅」さんの天ぷらなんかを天ぷらと呼ぶ方が多いかと思います。 (事実、天ぷらのままでいいのですが…)

もともと九州にポルトガル経由で輸入された調理方法であるといわれる「天ぷら」は、いわゆる「さつま揚げ」タイプの「魚肉練り物の揚げ物」として江戸時代に関西に伝わってきたかと思われます。

池波正太郎の「鬼平犯科帳」に登場する江戸時代の「かき揚げ」は蕎麦屋さんが舞台になっており、ここでは小柱のような「練り物」でない天ぷらでありますから、江戸時代後期には現在の原型となるシーフードの天ぷらが出来上がっていたようです。 

ちなみにもう少し早い時期が舞台となる「剣客商売」には天ぷらの記述が出てこなかったと思いますので、多分、江戸時代の後期に流行し始めたのではないかと思います。

ですから、今日の「天ぷら」は江戸でつくりあげられたに違いないと考えております。

私の祖父(明治の人です。)が若い頃に大阪より東京で修行に出て「フレッシュな魚介の天ぷら」を見てショックを受けたそうです。 

しかし、当時の天ぷらは庶民の食べ物で、「旦那衆」のお召し上がりになるものではなかったようです。 鮮度の落ちやすいものを新しくはない油で加熱調理して食したのですね。 冷蔵庫もトラックもなかったのですから当然です。

「おどりで食べられる泉州のシラサ海老」や「お造りにできる和歌山のキス」を新しい(透明の)極上油で揚げた天ぷらなら「高級食」として「旦那衆」に提供出来ると考えた祖父が、大阪に戻った際に「新しいスタイルの天ぷらを確立した!」、と聞いております。 

もちろん、真偽のほどは分からないのですが…(笑)

こうして色の白い、「関西の天ぷら」というものが明治の末か大正の初め頃に生まれたのではないかという仮説を持つに至りました。

ところで、なぜ関西では「天ぷら」をウスターソースで食するという、少々変わった(?)食べ方が定着したのでしょうか?  ここからは以前、日本経済新聞のどこかに書かれていたジャーナルからのご紹介になります。

そもそもウスターソースの会社は関西に集中していたそうでして、大正時代か昭和の初めかは忘れましたが、「ハイカラな食べ物『天ぷら』は洋醤油(=ソース)で食べよう!」といった大々的な広告が大きな影響を与えたのではないかということが書かれておりました。

関西圏、四国圏ではほとんどの地域で天ぷらはウスターソースで食べるものであるという食文化が根付いたそうですが、なぜか香川県だけにはそのような文化は浸透しなかったそうです。

いったい、どうしてなのでしょうか??
なぜ、香川だけが守られたのでしょうか???

そのジャーナルによりますと…

「香川県においては天ぷらは『うどんの上に乗っけて食するものである』」というのが理由だとか…(笑)

さすが、恐るべき「うどん県」ですね!