いきなりになっちゃいますが、小林麻央さんが亡くなられましたね。
闘病中の自分を晒すことで、いろいろなことを教えてくれたり、伝えてくれたりしました。 あんなに正面から向き合って戦った人が、、、って。 なんだか、寂しい、とかいうよりも、悔しいですよね。。。 麻央さんのブログや生き方から、たくさん、力をもらったり、励みになった人もおられるでしょう。
心よりご冥福をお祈りします。
2日経って、やっぱり話題にもなりますよね。そうです、それだけ人々に影響力も持っていたくらい、注目もされていたのだと思います。
そんな中、気になったのが、「きっと幸せだったね」という言葉でした。まぁ、まったく同じ言葉じゃなくてもそんな内容が。 そんな言葉に出会うことが何度かありました。
そうですね、きっと夫婦のお互いの愛を確かめあえて、子供達や家族にも囲まれて、幸せだったかもしれませんね。病気という逆境がなければ、その愛や幸せにも気付かないまま、だったのかもしれません。。。
「きっと幸せだったね。。。」
。。。
本当にそうでしょうか?
「嘘」ではないと思います。
亡くなる前にも「愛している」といって亡くなったと聞きます。きっと穏やかな気持ちで、本心だったでしょう。その時は。 きっと嘘偽りのないその時の言葉でしょう。
でもきっと、本当に、本当にそれが望んだことではないですよね? 無念だったと思います。無念だったはずです。そう思うのです。
だけど、受け入れなくてはならない事実があるから。遺す人たちの為にもそんなことばかり言っていられないから。 だから、きっと無念の感情を捨てたのだと思うのです。
奥さんとして、母親として、妹として、娘として、一人の人間として。 そして自分の人生を後悔しない為にも、自分自身として。
だって、本当の一番の願いは、死んで愛し愛されることじゃなくて、好きな人や大切な人達と共に生きて、そして生きていく中で愛を感じ合えることこそが、本当の幸せだったはずですよね。
ましてや、あんなにまだ小さい子供達二人を遺して。。。
そう、本人が「わたし、幸せでした」というのならば、何も問題ないのです。「強い人だなぁ」って。 だけど、他人がそれを軽々しく言って良い物だろうか?と、強い違和感を持つと共に、嫌悪感を抱いたのです。
もちろん、他人事なのです。言葉は悪いけど、自分以外のことは、いってしまえば他人事なのです。 これは悪いことだとは思わないんです。 ある意味、客観視ということにも繋がるし、俯瞰で物事を見るには必要なことだとも思うのです。
だから、たとえばコメンテーターが意見を求められたのなら、決められた時間で簡潔にコメントを求められるわけで、総じて「きっと幸せだったでしょう」でも、それは悪くないと思うのです。
だって「無念しかないでしょうねぇ。。。」って言ってしまったら、なんだか一緒に戦った家族も浮かばれないような気がするし。 だから、そんないろいろなことも加味して、総じてのコメントとして、だったら理解は出来る。
ただ、一般の人間が、ブログで発信したり、会話の中であったり、そんな場面で言っているのを見たり聞いたりすると、「・・・?」となってしまう。。。
「? 何だろうこの人? 本気で言っているのかな?」って。もっといえば「なんだろう、凄い考えてますよ、愛を理解していますよ、私は理解がありますよ、っていうアピールがしたいのかな?」そんな風にもとらえてしまう。。。
一見凄い理解がある人の発言、と見えるのですが、すこし軽薄な言葉ではありませんか?考えではありませんか?
言葉の軽い人間が、好きではなありません。
これは自分でも、いつも気をつけていること、なんです。
でもこれって難しい。
それはまた別にブログで書こうと思います。
そう、もちろん、他人事なんです。そうなんです。他人事なんですよね。
他人からすれば、亡くなったということ、亡くなったというその出来事だけの話なのです。 だけどそれは、家族だったり、周りの人だったりからすれば、そうじゃなくて。亡くなったという瞬間の出来事、なのではなく、その瞬間から生きていく間ずっと背負っていく、継続していく事実になるんです。
何年か経って他人は、そういえばあの時、亡くなったんだよなぁ。 といつか振り返ることも、家族からすれば、奥さんはずっといないわけで。たった一人のお母さんには会えないわけで。「あの時」ではなく「あの時からずっと今も」なのですよね。。。
子供達には「空の上でみまもっているよ」なのか。「ママはね、亡くなったんだよ」なのか。どう伝えるのかは分からないけど。 子供って意外と聞き分けがあるから、「そうなんだ」と理解して、そう振る舞う。 だけど、お母さんが恋しくなるときは必ずあるだろう。それでも、パパに心配かけるから。って何でもない風にきっと振る舞う。
そして、もう少し大きくなり、物事が分かってきた頃、改めて「何で自分には母親がいないの?」「どうして僕だけ?」「何も悪いことしていないのに?なぜ?」「神様は何でこんな試練を与えるの?」って思う日がやってくる。
そうやって、家族はこれからも戦っていかなくてはならないのだ。
亡くした者の悲しみは、亡くした者にしか分からない。
そう、もちろんこんなことを偉そうに書いている自分にも、分からないこと。。。
他人事を、他人の不幸を理解をするなんておこがましい。ただ、必要だとすれば、分かってあげようと歩み寄り、理解をしようとすること、なのだろう。
あの子達が大きくなったとき、「お母さんは立派だったよ」「お母さんは凄いんだよ」「お母さんは強かったんだよ」って、いつか言ってあげたい。そんな気分だ。。。そんな風に見守ってあげることだけが、自分に出来ることだろうか。。。
自分の大好きな実絵子さんもまた、そんな麻央さんのブログを読んでいた一人で、「素敵な言葉がたくさんあった」と称えている。 こうしてたくさんの人に、病気と闘いながらも与え続ける側の人間でいることを選択し、与え続けた麻央さんという人を、尊敬したい。
そして、やっぱりなんだか、やるせないですねぇ。
今週末はそんな気持ちが心の隅でくすぶっていた。
良いときも悪いときも、
富めるときも貧しきときも、
病めるときも健やかなるときも、
死がふたりを分かつまで、、、
これは結婚の時の誓約。いわば神との契約。
これって他のパターンもある。
ただこの「死が二人を分かつまで」と言う言葉がなんだか思い出されたのだ。これはいわば、結婚というのは二人が生きている間の誓約なのですよね。
だけど、この夫婦の愛は、二人の間に死が訪れても、いつまでも続くことを祈りします。
言葉って難しいですよね。自分の意に反して物事をとられることも少なくない。心で思うのと言葉に出すのとでは、全く違ったり。 今回の言葉も、そうだったのかもしれない。 一概に決めつけるのは危険、ですからね。。。 なのだけど、最近あまりにも、自分をよく見せたい為だけに、言葉を選んだり。振る舞ったり。 そんな悲しい?寂しい場面に多く出くわすことが多かった。たまたま。 だからなのか、そんなことに過敏になっていたのかもしれないですね。。。
今回も、自分の一意見、として書きました。不快に感じたり、それは違うと思う人も必ずいると思います。そして、自分のつたない文章から伝えたいことが必ずうまく伝わるかと言う部分もありますが。言葉は難しいですね。
でも、ただ、いえることは。
言葉の軽い人間が嫌いだ。