弊社で企画しているツアー「ジパング探訪」シリーズは、どちらかというと九州方面が中心で、安土桃山時代から江戸時代初期のキリシタンの歴史を辿ることが多いです。しかし北海道をご案内する「函館・札幌・旭川」のツアーもあり、こちらは明治以降、プロテスタントのキリスト教的影響を受けた人々の足跡を辿る内容で、若干毛色が異なります。

今回はそのツアーで訪れる、最初の訪問地・函館をご案内しましょう。

 

函館の中で訪れる場所としていくつかの場所がありますが、中でも独特なのは、新島襄海外渡航の地碑、高田屋嘉兵衛博物館などでしょうか。普通のツアーでめったに訪れることがない場所です。それぞれの場所を案内する前に、弊社のツアーに関連する函館の歴史から掘り起こしていきましょう。

 

函館は高田屋嘉兵衛(1769-1827)により発展した港町とされています。この人は淡路島出身の廻船商人で、兵庫と函館を結ぶ廻船業と漁場開拓で財をなし、のち国後島・択捉島の航路を開拓した人物です。歴史の上では「ゴローニン事件」(1811-13/ロシアの軍人・探検家で、南千島列島測量中に国後で日本の役人に捉えられる)に関わり、開放・解決に導いた人物として有名です。日本で3年ほど獄に入ったゴローニンは、帰国後「日本幽囚記」という本を書きました。

(日本幽囚記に記載された高田屋嘉兵衛像)

 

南千島の測量に出発してから釈放されるまでの日本での体験を記した部分と、日本国および日本人論とから構成され、彼が見聞した日本の姿を正確に伝え優れた日本人論となっています。出版されるとすぐにヨーロッパ各国語に翻訳され、当時の偏見に満ちた日本認識の是正に役だった本でした。

のちこの本に触れたイヴァンという一人のロシア青年(本名:イヴァン・ドミートリエヴィチ・カサートキン)は、日本、特に高田屋嘉兵衛の姿に魅了され、日本への渡航と伝道を志願します。1861年についにロシア領事館付属礼拝堂の司祭として函館にやってきました。洗礼名をニコライといいますが、その後神田のニコライ堂を建てる有名なニコライ神父です。この時嘉兵衛はすでにこの世にはいませんでしたが、彼は自分を遠い異郷へ導くきっかけとなった日本人・高田屋嘉兵衛のことを尋ねて回り、常にその手には『日本幽囚記』に収録された嘉兵衛の肖像画写真があったそうです。高田屋嘉兵衛とゴローニン事件、そして「日本幽囚記」がなければ、ニコライも日本に来ることがなかったことになります。

 (ニコライ神父像)

 

さてニコライは、日本に来てから数年間、日本の歴史や東洋の芸術や宗教を熱心に勉強します。ここに、のち京都で同志社大学を設立する新島襄が現れます。1864年故あって函館にやって来た新島襄はニコライと出会い、日本語や古事記などを手ほどきし、その代わりニコライは英語やキリスト教について教えたと言われます。

ニコライは新島を自分の弟子としたかったようですが、新島の渡米への思いは固く、ニコライの関係者の奔走で同年7月、函館に停泊中のアメリカ船籍・ベルリン号に乗船し出港することができました。まだ海外渡航は「国禁」だった時代のことで、その状況の中で志をもって出国した新島の意思の強さに感銘を受けます。

のち新島はボストン近郊のアマースト大学で学びます。この時科学を教えていたのが有名なウイリアム・スミス・クラークで、新島の紹介で日本へ来ることになりました。新島の渡米がなければ、このクラークは日本へ来ることがなかったとすると「Boys, be ambitious」もなく、そこで学んだ内村鑑三や新渡戸稲造も違う人生を歩んでいたのかもしれません。

高田屋嘉兵衛からクラークまで、一つ一つが奇跡のように繋がっていることに驚きを禁じえません。

 

さて「新島襄海外渡航の地碑」が下記の写真です。なんの変哲もない倉庫群の中の細い道を海沿いまで進むと、この碑が見られます。

(新島襄海外渡航の地碑)

 

この碑には

元治元年1864AD 七月十七日 旧暦六月十四日夜半

新島襄

海外渡航

乗舩之處

と刻まれ、一緒に新島作の漢詩がに刻まれています。

国禁を犯して出国した一青年の足跡の場所で、函館観光の中ではほとんど注目されることのない場所ですが、その後クラークまでつながる歴史を思うと、もう少し大きく取り扱えないものかな、と来るたびに思います。

 

 

次は高田屋嘉兵衛資料館です。

 

資料館の場所は高田屋造船所の跡地とされる場所で、1903年に建造された1号館と、1923年に建造された2号館の2棟からなります。私設の資料展示館として1986年に開館され、函館~大阪を航路とした「北前船」にまつわる品々を中心に、約500点が展示されています。

個人的には、司馬遼太郎の「菜の花の沖」や「北海道の諸道」などを読んで、北前船やニシン漁などに大変興味を持ちました。ニシンは食べるものとばかり思っていたのですが、江戸時代に広く着られるようになった木綿の生産のため、肥料として大量に畑に注ぎ込まれるようになり「金肥」と呼ばれていたそうです。

ニシンはそれまでアイヌの伝統的な漁法で食料として必要なだけとられていたものから、金肥として大量に大阪に運ばれ、それが綿の出来高を左右するようになり、大きな商品経済の枠組に入れられるようになったようです。ニシン漁を一手に管理していた北海道の松前藩は好景気が続き、武家屋敷や町人の家でも大変に豪奢で、他から行った人間が大変に驚いたようです。いわゆるニシン御殿ですね。

また、お正月に出てくる「数の子」はニシンの卵ですが、もともとはニシンの和名「カド」の子がなまって、“数の子”と呼ばれるようになったことも知りました。

 

前出のニコライ神父由来の、函館のハリストス教会もツアーで訪れる場所です。

 

当時幕府はロシアと1855年に日露和親条約、1858年に修好通商条約を締結し、箱館を開港することとなりました。この年、初代ロシア領事ゴシュケヴィッチは、港とその周辺の全景が見渡せる場所である現在地にロシア領事館を建てました。この領事館の付属聖堂として建立されたのがこの教会堂の始まりで、正しくは「函館ハリストス正教会復活聖堂」と言います。 

この中には、イコン画家として有名な山下りんの「主の昇天」「ハリストスの降誕」なども見ることができます。また、最初に聖堂ができたときに5個のを使って楽器のように鳴らしたところから、ガンガン寺という名前でも親しまれていて、環境省の「残したい日本の音風景100選」に選ばれています。

外見の美しさ、異国情緒を醸し出すその建物は、港町として発展した函館には欠かすことのできないものでしょう。

 

その他ツアーでは、トラピスチヌ修道院、函館朝市、オプションとして有名な函館の夜景を見にいったりします。ぜひ一度ご自分の目でご覧になって下さい。