今回はヨルダン・シリーズの第3弾として、洗礼者ヨハネ関連の遺跡マケラスをご紹介いたします。

 

マケラスの遺跡は、ヨルダン川の死海河口から南東へ約25km、海抜736mに位置します。モアブ地域にあり、現地では“ヒルベット・ムカウィル”と呼ばれます。死海が海抜下400mほどですので、死海湖面からは約1100m高い場所になります。

 

 

前々回このブログでご紹介したマダバから、いわゆる「王の道」を南下して途中から東に曲がり、細い道をくねくねとしばらく走ることになります。引っ込んだ場所でもあり、通常のヨルダンツアーではあまり訪れることはありませんが、聖書の舞台の一つとして、覚えて置きたい場所です。

 

この遺跡は、最初ハスモン王朝(紀元前103年~67年のユダヤ人王朝)のアレクサンドル・ヤナイという王様により、紀元前90年ころに建てられたと言われます。写真を見るとよく分かりますが、周囲を峻険な谷に囲まれた天然の要害であり、西側が開けていて死海とユダの荒野を見通すことができるため、ユダ地方の他の要塞とのろしなどで連絡が取れるという利点がありました。

 

 

後に、ヘロデ大王はここを強固な要塞に変え、東からの諸民族侵入と軍隊や王族などの身内の反乱に備えたそうです。

 

ヘロデ大王の死後、マケラスはその息子ヘロデ・アンティパスへ引き継がれることになります。そしてまさにこの場所で、福音書に記されるヨハネが斬首されるという痛ましい事件が起こります。

少し長いですが、聖書を引用しますと、

 

ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。(マルコによる福音書6章21-29節)

 

イエス様のことでないのに、詳しく描かれている箇所で、福音書の編者が重要視していたことが分かります。舞のほうびに人の首を切る、というなんともやり切れない痛ましい事件が描写されています。

 

このヨハネ斬首の事件は、聖書外資料としてヨセフス・フラビウスという少しあとの時代に生きたユダヤ人歴史家も記すところとなっています。

ヨハネは立派な人であり、ユダヤ人に正しい生活をおくり、同胞に対する公正を、神に対する敬虔を実行し、洗礼に加わるよう教え勧めたのに、ヘロデ(アンティパス)は彼を死刑に処したからであった。(中略)

ヘロデはヨハネの民衆に対する大きな影響が 騒乱をひき起こしはしないかと恐れた。彼らはヨハネが勧めることなら何でもしようという気持ちになっていたからである。 そこでヘロデは実際に騒乱が起こって窮地に陥り、そのとき後悔するよりも、彼によってひき起こされるかも知れない反乱に先手をうって、彼を殺すほうが上策であると考えた。そこでヘロデの疑念のためにヨハネは前述した砦のマカイルスに送られ、そこで処刑された。

(ヨセフス「ユダヤ古代誌」18:116-119)

 

最後の1行にある通り、この事件が起こったのは“砦のマカイルス”という場所だったこと、そしてそこで処刑されたことが分かります。またヨセフスが記す別の箇所で、ヘロデヤの娘の名はサロメ(ヘブライ語ではシュロミート)ということが分かっています。

 

洗礼者ヨハネ斬首事件の背景は以下の通りです。

ヘロデ(アンティパス)は、政略結婚でペトラを支配するナバテヤ王アレタスの娘と結婚していました。ペトラは当時「香料の道」を支配し経済的に大変に栄えた国で、これには国の東の防御を固めるという政治的な意味合いもありました。

彼にはピリポという異母兄弟がいましたが、ある日ヘロデがピリポの家に泊まった際、その妻ヘロデヤと恋に落ち結婚を申し込みました。ヘロデヤはヘロデの妻を追放することを条件に、申し出を受け入れたのでした。

 

ピリポは薬草の研究をする温和な学者肌の人物だったようです。妻ヘロデヤは気性が激しく情熱的な人で、夫ピリポは彼女にはいささか物足りない人物だったのかもしれません。追い出されたヘロデの元妻と、妻に逃げられたピリポは、本当にいい面の皮です。

 

当時のローマ帝国内では、そのようなことは珍しくなかったのかもしれません。しかし、ことイスラエルにおいては、義姉妹との結婚がモーセの律法(レビ記20章10節)で固く禁じられていましたので、洗礼者ヨハネは、このことを厳しく公然と糾弾していたのでした。

ヘロデは洗礼者ヨハネの糾弾をかわすため、彼を捉え獄につないでいたのでした。そのような状況の中で、彼の誕生日に祝いの宴がおこなわれ、その中でサロメが素晴らしい踊りを披露したわけです。

 

 

上の地図では紫色の部分がヘロデ・アンティパスの領土、オレンジ色の部分がピリポの領土です。ちなみにその間の黄色の部分はデカポリス(10の町の意味)と呼ばれ、ローマ風の壮麗な10の町が治めていた地域です。

 

若い娘の妖艶な踊りと斬首された首を盆に載せて持ってくる物語は、多くの芸術家を刺激するテーマのようで、レンブラント、カラヴァッジョ、クラナハなど数多くの芸術家の描くところとなり、多くの作品が残されています。

 

さて実際にマケラスの遺跡に行く際は、駐車場から鞍部の細い道を通り山頂へと向かいます。山頂の面積は大きくはなく、遺跡としては小さい部類でしょう。もともと小さな砦あとに離宮を建てた感じです。実際に遺跡に立ってみると、この敷地のどこにヨハネの牢獄があったのかな、と想像してみたくなります。

 

山頂から西の方を眺めると、眼下に死海を見下ろすことができ、その向こう側にはまるで屏風のように切り立った崖が見え、その奥にはユダの荒野を見ることができます。

山頂の遺跡はこんな感じです。

 

 

山頂に建てられていた建物の復元図は以下のような感じで、高い壁に囲まれた小さな宮殿があるだけです。

 

 

高官や将校、ガリラヤの有力者などを招待したとあるので、私の勝手な想像ですが、きっと赤い屋根のついた中庭のあたりで宴会は催されたことでしょう。(宴会の場所は、ガリラヤ湖畔のティベリアだったと考える学者もいます)

 

数年前、遺跡を掘り進める考古学者たちが、大きな沐浴用のプールを発見しました。遺跡内のこのサイズのプールですので、ヘロデが利用したものに間違いないだろうと考えられています。

 

 

囚人はしばしば、貯水用のプールに閉じ込められていましたので、彼が囚われていた場所はこの付近かもしれません。

 

マケラスは行き来にくいところではありますが、聖書に記される事件の舞台として覚えていただければと思います。