群馬県出身の方で知らない人はいない「上毛かるた」。

このかるたの中に「平和の使徒 新島襄」の1枚があります。

 

 

新島襄の生涯を書こうとすると、とてつもない分量になりますので、弊社の「日帰りで行く群馬バスツアー」で訪れる群馬県安中市に関連するところを中心にご紹介していきたいと思います。

 

新島襄は1843(天保14)年1月14日、安中藩の江戸屋敷で生まれました。

曾祖父、祖父、父は、安中の生まれで、4人の姉がいる家庭に長男として生まれ、幼名を「七五三太(しめた)と名付けられます。

これは、願っていた男子の出生に祖父は「しめた!」と叫び、そのまま命名したとも、正月のしめ縄が張っている時期に生まれたからだともいわれています。

 

安中藩主の板倉勝明(かつあきら)は、学問を大切にしていた殿様で、藩士にも学問の大切さを説いていました。

新島襄も13歳の時に藩主の命で蘭学を学び、アメリカの歴史や地理にも触れます。

賢明な藩主、板倉勝明が1857年に他界すると、弟の勝殷(かつまさ)があとを継ぎますが、勝明のようではなく、自分の事ばかり考える自己中心な殿様でした。新島襄は前途が真っ暗になる思いで悲しみました。

 

また、それまで、ほとんど江戸屋敷にいたままで自由を感じられなかった新島襄は、後に「そこでは空も四角く区切られていた」とも語っています。

 

勝殷は、江戸から安中に移動する際、護衛として若者を選び同行させましたが、その中に新島襄もいて、17歳の時初めて安中へやってきます。

新島襄旧宅

 

このころ、新島襄は友だちの家で聖書を見つけました。アメリカの宣教師が中国語で書いたもので、聖書の中で大事な出来事だけをまとめてありました。それを友達から借り、夜の間に読んで、

「人間は神の子であって、世界は見えない神のみ手でつくられている」

「自分は父母のものではない。神のものである。天の父に仕えなくてはならない」

と思うようになりました。

 

その後、18歳の時に幕府の軍艦操練所に入り、オランダ語で航海術を勉強し、安中藩の本家筋にあたる松山藩の洋式帆船「快風丸」に乗船します。
このときの自由の味が忘れられませんでした。

 

そして、世界を知り、キリスト教を知り、日本を少しでもよい国にしたいという心が強くなって、この「快風丸」が函館に行くと聞き、再び乗船します。

この函館から1864年6月14日の夜半、脱国=密出国してアメリカへ渡航します。

 

10年のアメリカでの学びの間に、明治維新になり、岩倉具視を中心とした日本政府の使節団がアメリカを訪れた際、通訳や案内をしました。

新島襄のことを知った使節団は、政府で働いて新しい日本のため日本の国をよくしてほしいと、役人として働いて欲しいと勧められますが、断ります。

その後、政府がヨーロッパ諸国の教育制度の視察をする際にも政府から求められて同行し、ヨーロッパ訪問国の教育に触れることによって一層、彼の内では日本の教育に対する思いが強くなっていきます。

 

アメリカで学んでいた大学が、アマースト大学でしたが、ここで教鞭をとっていたのが、有名なクラーク博士。

日本政府は農学校を各地に開校し、そこで教える外国人の教師を探していました。ウィリアム・スミス・クラーク博士は新島襄を通して紹介されて、札幌農学校へ招聘されました。

新島襄と出会っていなかったら、クラーク博士が日本にやってくることも無かったでしょうし、“Boys, be  Ambitious”の言葉もここまで浸透することはなかったでしょう。

 

さて、10年ぶりに帰国した新島襄は、横浜で船を降りると、その日のうちに、人力車で年老いた両親のいる安中に向かい、家族との再会を果たしました。

安中では、10年ぶりに帰ってきた新島襄の話を聞くために、たくさんの人たちが集まってきました。新島家や、便覧舎、旧安中城内などで講演し、日本とアメリカの違い、キリスト教徒日本の神、仏との違いなどについて語りました。

その人たちの中から30人ほどの人が、もっと聖書を知りたいと新島襄に頼んで横浜から送ってもらい、聖書の学びをはじめました。

3年後、この人たちの求めに応じ安中に来て洗礼を施し、1878年、安中教会が誕生しました。

安中教会

 

その中心となった人物が醤油醸造業を営んでいた湯浅治郎です。湯浅治郎は、安中で日本最初の図書館「便覧舎」を創設し、国会議員も務め、同志社大学の発展と安中の小中学校、安中教会の建設に尽力した方でした。

 

この湯浅治郎の本業は、なんと「有田屋」という、お醤油屋さん。

1832年の創業で今でも「便覧舎」跡地の横にどっしりとした店構えの「有田屋」さんがあり、おいしいお団子をいただくことができます。

 

 

新島襄は日本に帰ってきてからも政府で働くように要請がありましたが、すべて断り、アメリカにいる時に願っていたキリスト教を土台とした教育に力を入れるようになります。

そして、皆さんご存じの、同志社大学の前身、同志社英学校を1875年に創設し、初代の校長となります。

 

また、仙台にも東華学校を1886年に設立し、こちらも初代校長となりました。

この東華学校の先生を中心に作られたのが、宮城組合教会(現:仙台北教会)で、東華学校が県立中学に編入され、廃校となったのちにも教会は残り、今に至っています。

 

弊社のバスツアーでは、新島襄の旧宅や安中教会(外観)を見学しながら、新島襄の精神に触れていきたいと思っています。

ぜひ、ご参加ください。