弊社のツアーに「ぐるり北陸の旅」がありますが、そのツアーの中でメインの一つになっているのが、人道の港敦賀ムゼウムです。 
 
福井県敦賀市にある敦賀港は、明治時代の1899年に外国との貿易港の一つとして指定され、1902年には敦賀とロシアのウラジオストクとの間に定期船が就航されました。 
それから10年後には、シベリア鉄道を利用して、ヨーロッパの各都市を結ぶ拠点となり、「東洋の波止場」とうたわれるほどになりました。
敦賀港は2つの出来事を通し、「人道の港」と呼ばれるようになりました。 その2つの出来事をご紹介していきます。 
(資料館前の石碑「自由への扉」ヘブライ語とポーランド語でも表記)
 
先ず一つは1920年。第一次世界大戦からロシア革命後の動乱の時期で、日本からもシベリア出兵がありました。当時のシベリアにはロシアに反抗した多くのポーランド人が流刑で移住させられる土地で、15万人とも20万人ともいわれる人々が極貧の生活を強いられていました。
家族を失ってたくさんの孤児がいましたが、窮状を見かねた日本政府が手をさしのべ、ウラジオストクから陸軍の輸送船「筑前丸」に乗って敦賀港にたどり着きました。計5回にわたり375人、
さらにその2年後の1922年には388人の孤児が到着し、計763人が救出されました。そこには日本赤十字社の迅速な活動がありました。この数百名のポーランド孤児を温かく迎え入れたためか、ポーランドではとても親日家の方が多いです。
私も以前ポーランドを訪れた際、ツアーに同行してくれた現地ガイドの女性がとても日本のことが好きで、自己紹介の時、ポーランド語の名前でなく、自ら日本語の名前を付けて、その名前で呼んでください、と言っていたのが大変印象的でした。他にも、どこへ行っても日本人へ対する接し方が温かく感じました。そのガイドさんは、日本語の名前を付けた理由をポーランド孤児と関係付けてたわけではありませんが、敦賀ムゼウムを訪れてその歴史を知った時、ポーランドに親日家が多いのはこの事と深いつながりがあることを感じました。 
ちなみに、敦賀ムゼウムのムゼウムは、ポーランド語で資料館という意味です。 
 
もう一つの出来事は、1940年にナチスの手から逃れてやって来た、約6000人のユダヤ人難民の受け入れです。このユダヤ人難民は当時リトアニアの日本領事館で日本通過のためのビザを手に入れ、シベリア鉄道を経てウラジオストクから敦賀港へたどり着きました。そのビザを発給したのが、リトアニア領事代理していた杉原千畝さんでした。 杉原さんのことはご存知の方も多いと思いますので割愛しますが、ポーランドからの763人の孤児と同様に、敦賀の人々は6000人のユダヤ人難民を温かく迎え入れました。銭湯を無料で開放し、食べ物を分け与えたりしました。中には異質な外国人の姿を見て、怖くなって戸を閉めたもいたようですが、それでもユダヤ人難民にとって、敦賀の町は天国に見えたようです。「私たちは何百年経とうと敦賀を忘れない」とユダヤ人の証言も残っています。
皆さんの中には、数年前に上映されていた映画「杉原千畝」をご覧になった方もいらっしゃると思います。私がその映画を見ていて非常に印象的だったのが、逃れたユダヤ人が多くの苦難を経てウラジオストクから出港し、遠くに敦賀が見えてきた時、甲板に人が集まり始めて後のイスラエル国歌になる「ハティクヴァ(希望)」という歌を涙ながらに歌い始めるシーンでした。敦賀港はユダヤ人が生き延びていくための、まさに希望の港だったと改めて思いました。 
 
この2つの出来事が敦賀港を「人道の港」として、世界でも知られるようになり、港すぐ近くに敦賀ムゼウムが建てられました。 今年11月にはリニューアルオープンする予定です。 
(リニューアルされる敦賀ムゼウム)
 
敦賀には、見返りを求めず人道的な対応をし、それぞれの難民を迎え入れた歴史があります。それを是非この人道の港敦賀ムゼウムで見て感じてみませんか。