川は、流れるために流れる
役に立つから、ではなく。
気がついたら、内観している。
意識してやっているわけじゃない。
行動して、何かが起きて、その意味を掴もうとしているうちに、気づいたらすごく時間が経っている。
その間は、動けない。
忙しいのに、ほったらかしにしてしまっているから、罪悪感もある。
でも、その罪悪感をなくしたくて、「これはきっと役に立つ」という理由を探している自分もいる。
言い訳探し、かな。
たとえば、奈良で蔵王権現を見たこと。
◼️奈良国立博物館 吉野・大峯 蔵王権現に捧げた祈りと美
あの像の前に立って動けなくなった感覚から、
神仏混交と神仏分離の話になって、
行き過ぎた神仏分離の意識が、廃仏毀釈にまでなった。
そんなことがあったのに、今は、神仏仲良く私たちの生活の中に入っている。
そんな気づきから
今の日本主義、外国を排除しようとする人たちの無意識まで、一気に飛んでいった。
神仏混交は、「どちらでもある」という状態を、長い時間をかけて育てたもの。
矛盾したまま共存させた。
蔵王権現は、釈迦・千手観音・弥勒が一つになった像で、混ざることで生まれた力を持っている。
一方、排除したいという気持ちの奥には、混ざることへの恐怖がある。
純粋でないと不安になる、という構造。
正しいと正しくないが交錯して、どちらとも決められない。
でも、決められないまま見ていること自体が、今の時代に必要なことかもしれない、とも思う。
構造が面白いと思う。
内観しているはずが、世の中の仕組みが見えてくることもある。
こういう気づきが湧いてくると、とどめておけなくて、どこかに流したくなる。
でも、「人に聞かせたらどう思うんだろう」という気持ちもずっとある。
川が流れているのは、何かの役に立つからじゃない。
流れることが川の在り方で、結果として水が腐らず、魚が住めて、田んぼに水が届く。
内観して、構造を見て、気づきを追いかけているのも、たぶんそれと同じ。
役に立つから流れるんじゃなくて、流れているから、何かが生まれる。
川に、流れる許可はいらない。
ああ、そうか、と思った。
正当化しなくていい。
理由を探さなくていい。
これが今の自分の在り方だ、とただ置いておく。
それだけで、罪悪感はどこかに行く気がした。
湧いてくるものを、言葉にして流してみようと思う。
どこに行き着くかわからないまま。それでいい。


