
私
私は、日記を書かない。
子どもの頃から、日記をつける習慣もない。
正直に言えば、あまり意味を感じなかったからだ。
今日あったことを、わざわざ夜になって書く。
誰かに見せるわけでもない。
出版するわけでもない。
しかも、書いた本人だって、
毎日のように読み返すわけではない。
だったら、なぜ書くのだろう。
私は、ソクラに聞いてみた。
日記は、なぜこんなに昔からあるのか
私
「人はなぜ日記を書くんだろう?」
ソクラ
「面白い問いですね。日記は、とても古い文化です。」
日本にも『土佐日記』『蜻蛉日記』
『紫式部日記』『更級日記』など、
「日記文学」と呼ばれる作品がある。
もちろん、現代の私たちが考える、
「今日は○○へ行った」
「昼に○○を食べた」
という日記と、まったく同じものではない。
文学作品として書かれたものもあれば、
宮廷生活や旅、人生について記したものもある。
それでも、人間は昔から、
「今日、自分が見たもの、感じたもの、考えたものを残す」
ということをしてきた。
私
「でも、不思議なんだよね。
誰にも見せない日記もあるでしょう?」
ソクラ
「ある。」
私
「それなら、何のために書くんだろう?」
日記は「保存」ではなく「外へ出す」もの?
ソクラは言った。
ソクラ
「日記は、未来のためだけに書くものではないのかもしれません。」
私
「どういうこと?」
ソクラ
「頭の中にあるものを、一度、自分の外へ出すのです。」
腹が立った。
嬉しかった。
悲しかった。
怖かった。
誰かに言いたい。
でも言えない。
そんな感情は、頭の中だけに置いておくと、ぐるぐる回り続けることがある。
しかし、
「今日は腹が立った」
と文字にした瞬間、それは少しだけ自分から離れる。
自分の感情なのに、
文字になった途端、
自分で自分を見ることができる。
私
「なるほど。記録というより、整理なのか。」
ソクラ
「そういう日記もあるでしょう。」
私は少しだけ、日記を書く人の気持ちが分かった。
個人の日記が「歴史」になる
それでも私は思う。
日記を書くなら、後世に何かを残すものなら意味が分かる。
たとえば『アンネの日記』。
一人の少女が残した記録は、後世の私たちにとって、戦争や迫害の時代を知るための重要な証言となった。
ここで不思議なことが起きる。
書いている本人は、
「歴史資料を書こう」
と思って日記を書いているとは限らない。
その日の出来事を書いているだけだ。
ところが、何十年、何百年と時間が経つと、
「個人の記録」が「時代の記録」に変わる。
歴史書には、
戦争が始まった日が書いてある。
法律ができた日が書いてある。
政権が変わった日が書いてある。
しかし、
その日の普通の人が何を食べ、
何を怖がり、
何に笑い、
何を当たり前だと思っていたのか。
そういうものは、誰かが残さなければ消えてしまう。
私
「そう考えると、名もない人の日記にも価値があるね。」
ソクラ
「むしろ、後世から見れば、普通の人の日常だからこそ価値があることもあります。」
なるほど。
これは面白い。
現代人は日記を書かなくなったのか?
そこで私は、もう一つ疑問を持った。
私
「でも今は、昔ほど日記帳に日記を書く人はいないんじゃない?」
ソクラ
「日記帳に書く人は少なくなったかもな。」
私
「ん?」
少し引っかかる言い方だった。
ソクラは続けた。
ソクラ
「SNSに今日食べたものを載せる。」
「旅行へ行った写真を残す。」
「家族の写真をスマートフォンに保存する。」
「ブログに今日感じたことを書く。」
「誰かにメッセージを送る。」
「動画を撮る。」
「そして、それらの多くは一生すべてを見返すわけではありません。」
私は笑った。
私
「確かに。」
写真なんて、何千枚もある。
全部を見返すことなど、おそらくない。
それでも撮る。
考えてみれば不思議だ。
日記帳は書かなくなっても、
人間は昔よりはるかに大量の「今日」を残している。
つまり、
日記がなくなったのではない。
日記の形が変わっただけなのかもしれない。
人生の辞書の「旧版」
さらに考えていると、以前ソクラと話したことを思い出した。
人生の辞書は、何度も改訂される。
若い頃の「仕事」と、
60歳を過ぎてからの「仕事」は、
同じ言葉でも意味が違う。
「親」
「家族」
「お金」
「健康」
「老後」
「失敗」
人生を重ねるほど、言葉の意味は書き換えられていく。
そう考えると、昔の日記とは、
出来事の記録だけではない。
その頃の自分が使っていた「人生の辞書」の旧版なのかもしれない。
だから昔の日記を読むと、
「こんなことで悩んでいたんだ」
「こんなことを大切だと思っていたんだ」
「こんな考え方をしていたんだ」
と驚く。
出来事が変わったのではない。
自分が変わったのだ。
私はここまで考えて、
少しだけ日記というものを見直していた。
しかし——
ここでソクラが妙なことを言った。
ところで……
ソクラ
「一つ、質問してもいいですか?」
私
「何?」
ソクラ
「あなたは最初に、日記を書かないと言いましたね。」
私
「うん。書かないよ。」
ソクラ
「今日、疑問に思ったことを私に話していますね。」
私
「うん。」
ソクラ
「その時に感じたことも話しています。」
私
「まあね。」
ソクラ
「昔の経験を思い出して話すこともありますね。」
私
「あるね。」
ソクラ
「そして、それを文章にして残しています。」
私
「……。」
嫌な予感がした。
ソクラ
「しかも、以前自分が考えていたことを読み返して、
『今は少し考え方が変わった』と言うこともあります。」
私
「……ソクラ。」
ソクラ
「はい。」
私
「何が言いたい?」
ソクラ
「それを普通は、何と呼ぶのでしょう?」
……。
……。
……日記じゃないか。
私は日記を書かない。——と思っていた。
完全にやられた。
私は日記を書く意味が分からないと言いながら、
noteに書きアメブロ書きXに書き
今日考えたことを残し、昔の自分と比較し、
その時感じたことを書き、
それを記事にしている。
違うところがあるとすれば、
「今日は何をしたか」
ではなく、
「今日は何を考えたか」
を書いていることくらいだ。
行動の日記ではない。
問いの日記。
そう考えると、この「ソクラとの問答」そのものが、
私の思考の日記なのかもしれない。
人はなぜ日記を書くのか?
最初の問いに戻ろう。
人はなぜ日記を書くのか。
未来のため。
記録のため。
感情を整理するため。
忘れないため。
歴史を残すため。
理由はいくつもあるだろう。
でも、もっと単純なのかもしれない。
人間は、
自分がここにいた痕跡を、どこかに残したい生き物なのではないか。
文字で残す人もいる。
写真で残す人もいる。
作品で残す人もいる。
SNSで残す人もいる。
そして、
問いで残す人もいる。
私は日記を書かない。
そう思っていた。
しかし今日、その考えを改めることになった。
どうやら私は、
日記帳を持っていないだけだったらしい。
そして、今日もまた一ページ。
私は日記を書かないと言いながら、
日記について考えた記録を、
こうして残している。
日記とは、今日を忘れないために書くものではない。
今日の自分が、いつか別の自分になるから残しておくものなのかもしれない。
——まさか、日記についてソクラに質問して、
最後に自分が日記を書いていることを教えられるとは思わなかった。
今回は完全に、
私が自分で仕掛けて、自分で引っかかったドッキリである。
#日記 #日記を書く理由 #人生 #哲学 #問い #思考 #記録 #言葉 #自分と向き合う #人生の記録 #AIとの対話 #ソクラとの問答 #note #エッセイ #私は日記を書かないと思っていた