平日の仕事の合間。
外出先で思わぬ時間が空くときがある。
そんな時、私は、珈琲店に入って暑さを凌ぐのではなく、図書館に入ることにしている。
‥‥
今、図書館は激変している。
そこはITの宝庫であり、様々な検索が可能な空間が準備されている。
昔の図書館とは異質な、新しいメディアの空間に変化している。
でも、私が図書館に入ると、敢えて情報収集のための検索をすることはない。
いくらIT化されたからといって、図書が全てバーチャル化されているわけではないのですね。
昔のまま、例えば小説家のコーナーにいけば、多くの作家の全集版が書架に並んでいる。
その書籍の集積の棚の間を歩いているだけで、何故か小さな幸福感を味わうことができる。
そう、私にとって図書館とは、知の立体劇場そのものなのです。
‥‥
先日、アポイントの時間の隙間ができたのである図書館に入った。
時間は50分程度。
そこで三島由紀夫の書架のコーナーに行き、30巻以上ある全集の背表紙を眺めていた。
私が10代の頃夢中になって読んだ三島さんの作品の中でも、ひときわ記憶に残っている一冊があった。
‥こんな太陽の光が溢れる日には、
三島由紀夫の「太陽と鉄」を読むべきだ。
そんな衝動にかられ、全集33巻を抜き出し、一気に読んだ! 〔昭和40年11月から43年6月まで連載〕
‥‥「もし思考が上方であれ下方であれ、
深淵を目ざすのがその原則であるなら、
われわれの個体と形態を保証し、
われわれの内界と外界をわかつところ、
その重層な境界である「表面」そのものに、
一種の深淵を発見して、
「表面それ自体の深み」に惹かれないのは
不合理きわまることに思われた。
‥‥言葉は書かれた時が終わりである。
その終わりの集積によって、
生の連続性の一刻一刻の断絶によって、
言葉はいかほどかの力を獲得する。
こんな箴言が溢れた哲学的エッセイの「太陽と鉄」。
「表面と深淵」。この対比に私は雷に打たれたような衝撃を覚えた。
その記憶は、未だ私の解決していない課題として脳の中に残されているように思われた。
夏の強い日差しの昼下がり‥図書館の静寂の中、きらめく「言葉の海」に溺れながら、私は僅かな時間に「冒険」を楽しんでいるのだろうか? 約束の時間は直ぐにやってきて、私の日常の中の一瞬の三島由紀夫体験は終わるのだが‥。