北九州 その3 (小倉)  通し№1755

 

門司港をあとに小倉までやって来ました。

 

 

小倉祇園太鼓のお出迎えです。

 

小倉祇園太鼓は、小倉城内に鎮座している八坂神社の例大祭で行わる太鼓とジャンガラと呼ばれる金属製のシンバルのような鉦鼓(しょうこ)による演奏が主役となる「太鼓祇園」の事です。

山車に太鼓を設置し叩きながら練り歩く「廻り太鼓」と、台に設置した太鼓を叩く「据え太鼓」があります。

この像は「据え太鼓」ですね。

 

約400年前、疫病や飢饉を沈めるため、小倉藩主細川忠興公が京都から祇園祭を取り入れたのが始まりとされ、明治になってから和太鼓を中心としたスタイルになりました。

太鼓芸として初めて国の重要無形民俗文化財に指定されています。

 

祇園太鼓は、村田英雄の「無法松の一生」、坂本冬美の「あばれ太鼓」の歌でもお馴染みですが、「無法松の一生(度胸千両入り)」は私の十八番で、今でもカラオケで良く唄っています。

画面にこの像も登場しますのでご覧ください。 リンク下差し

 

小倉は大都会ですね。

 

「銀河鉄道999」のマンホールです。

今年の2月に銀河の向こうに旅立たれた「松本零士」さんは、久留米生まれで小倉育ち、小倉でもそこそこ漫画を書いていましたが、漫画家として大成すべく東京までの片道切符だけを手に小倉駅を旅立ちました。

 

小倉城まで19分と書いてます。

 

パチンコ屋も祇園太鼓、一色です。

 

 

こういう表示は分かり易くてイイですね。

真ん中に、銀河鉄道の職員で「機械化人間になろうか、元の体に戻ろうか、迷いに迷っていた高圧ガス体の透明人間「車掌」があしらわれていました。

 

こういう裏通りもあります。

 

 

あと11分。

こんなに小刻みに書いていると安心します。

 

勝山橋東詰めに出ました。

紫川の向こうに「リバーウォーク北九州」「リバーウォーク北九州」「小倉DCタワー」が並んで見えます。

 

「紫川さくら通り」を南へ進みます。

 

右手は「小倉聘珍楼ANNEX」です。

横浜の聘珍楼が昨年倒産したのは残念な事でしたが、こちらは頑張っているようですね。

 

 

「鴎外橋」までやって来ました。

 

鴎外橋を渡ると小倉城のエリアになります。

 

橋の上から左に「北九州市役所」が見えます。

北九州市は昭和38年(1963)に、門司・小倉・若松・八幡・戸畑の5市が合併して誕生しました。

私が子供の頃は、東京・横浜・名古屋・京都・大阪・神戸が人口100万人を超える「六大都市」と言われていましたが、そこに100万都市の北九州市が誕生した時は、

「そんなんありかいや」と思った事を思い出します。

阪神間の東西30km圏に置き換えれば、神戸から伊丹をまとめて神戸市を250万都市にしてしまうようなものです。

でも、北九州市の誕生は日本の発展を実感する出来事でした。

 

北九州市は、今ではその後増加してきた札幌・福岡・川崎・さいたま・広島・仙台・千葉に抜かれ、2005年には100万人を少し下回る14位になってしまいました。

若い世代の他都市流出や、産業構造の変化による企業の撤退等が人口の減少要因だそうです。

 

右手は「リバーウォーク北九州」です。

 

鷗外橋は「水鳥の橋」とも呼ばれています。

 

橋の出っ張りに、淀井敏夫作「鴎」の、少女と鷗が戯れている彫刻が水鳥の橋を象徴しています。

 

鷗外橋を渡ったところの「勝山公園」に「森鴎外文学碑」があります。

 

森鴎外は、陸軍十二師団軍医部長として約2年10カ月を小倉に滞在していました。

 

六角の記念碑には各面に鴎外の小倉を舞台にした作品の一節が書かれていました。

 

             「鶏」より   「小倉日記」より

 

「我をして九州の富人たらしめば」より 「森鴎外顕彰會/小倉市長林信雄書」

 

       「二人の友」より      「独身」より

 

公園に「コメダ珈琲店」があったので少し休憩しましょう。

 

昼から少し暑くなって来たので、全員冷たいものを注文しました。

 

クリーム・コーヒー

 

ソフトクリーム

 

コメダの名物、シェーク・グラスに入った「ミルクセーキ」

 

リバーウォークから、紫川の向こうに、小倉駅から歩いて来た小倉聘珍楼ANNEXの反対側にあるモンベル小倉店が見えます。

 

小倉城へ向かう途中にレンタルサイクルが置かれていました。

街道を歩いている時に何度も思ったが、自転車で回るのもいいなあ!!

 

堀の正面に「リバーウォーク北九州」の建物が城の景観を妨げるように建っていました。

 

堀端で路上ライブをやってますが、誰も聞いてません。

 

虎ノ門口から小倉城に入ります。

 

 

 

 

 

右手は八坂神社の境内へと続きます。

 

 

小倉城庭園は、池泉回遊式庭園になっているらしいが、残念ながら入りませんでした。

 

小倉城の天主閣が現れました。

小倉城に来たのは2度目です。

 

 

 

城の石垣って、どこの石垣でも魅力を感じてしまいます。

 

特に小倉城は野面積みなので、より石の魅力が現れています。

 

『 鯉ノ城 栄華の痕を 石垣に 』

 

師匠の川柳は・・・

『 友垣が 集う故郷の 秋祭り 』

  ・・・野面積みは友垣が集っているように見えなくもありません。

 

大手門跡

 

おっ、左へ行くと「松本清張記念館」か!!

私一人なら行ったのにと思いながら天守閣に向かいます。

松本清張は広島生まれで小倉育ちですが、父親がだらしなかったため、出生届が小倉に出されたので、小倉では清張は小倉生まれと言い張っているそうです。

 

少し残念なので写真をお借りします。

凄い立派、こんなんなら行けば良かったと後悔しました。

 

小倉城訪問の1度目はこのように修理中でしたが・・・

 

2度目の今回は綺麗になっていました。

最上階に縁側をめぐらせ、外側には戸板で覆った内縁がせり出し、4階より大きいという珍しい唐造りになっています。

 

小倉城は、永禄12年(1569)、毛利氏が城を築いたことに始まります。

慶長7年(1602)から-細川忠興が約7年かけて唐造の天主閣を築城し、細川氏が熊本に転封の後は、慶長17年(1632)に小笠原 忠真(おがさわら ただざね)が入城し、以後幕末まで小笠原氏が居城しました。

明治時代から第二次世界大戦中には、歩兵第12旅団や第12師団の司令部が城内に置かれました。

森鴎外が陸軍12師団軍医部長として赴任していたのは前述のとおりです。

 

ここから登閣しますが、連れたちは天守閣に興味がないらしく、上がりませんでした。

 

これは小振りながらも小天守です。

 

現在の小倉城は1959年に再建されたものです。

 

「宮本武蔵 誠心直道」と刻まれています。

 

碑文には、『天下武を論ずる者剣聖宮本武蔵先生を以て第一となす・・・兵法二天一流 誠心直道之碑を建てる』とあります。

 

宮本武蔵は慶長17年(1612年)4月小倉を訪れ、細川藩家老長岡(松井)佐渡興長を訪ね、佐々木小次郎との試合の許可を依頼しました。

 

宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘の像です。

 

『 二刀流 野球になって 蘇り 』

 

師匠の川柳は・・・

『 あんみつと 麦焼酎の 二刀流 』・・・いろんな二刀流があります。

 

これが「木の幹の化石」だそうです。

 

多聞口から八坂神社へ進みます。

 

着見櫓は、櫓上から沖を通航する船を監視する櫓です。

 

途中、三本松高倉稲荷神社があります。

 

説明板の字が薄くなって見にくいですが、祭神は「宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)」で、早い話がお稲荷様です。

永禄4年(1561年)に創建されましたが、天正6年(1578)大友氏の戦火で焼失したので後に小さな祠として再建されました。

慶長年間になって、小倉藩主細川忠興公が小倉城を築城した際に、小倉城に移されました。

 

隣に「水之御祖社(みずのみおやしゃ)」があります。

祭神は、「御井神・鳴雷神・水速比女神」の三神です。

 

神楽殿

 

イボ取り石

 

この岩の窪みに溜まった腐れ水をイボに付けるとイボがとれます。

 

絵馬の小径 

 

八坂神社の拝殿前に出ました。

「小倉の祇園さん」と呼ばれ、『無法松の一生』で一躍有名になりました。

小倉駅にあった「祇園太鼓」は、この八坂神社の例大祭で乱れ打ちが演奏されます。

祭は、元和元年(1618)にはじまり、約390年の歴史があります。

 

社務所

 

 

左が「東楼門」で、右が「祖霊殿」です。

 

祖霊殿

 

 

手水舎

 

東楼門から退出します。

 

 

八坂神社から東へ回り込むと、再び小倉城に出ます。 

 

お堀越しに見る小倉城はまた格別です。

 

右は、八坂神社の「参集殿」です。

 

 

 

紫川テラスに戻って来ました。 

 

勝山橋(石の橋)

 

紫川の川向こうから見えていた丸い建物はNHKでした。

 

祇園太鼓の形をイメージしているそうです。 

 

勝山橋を渡ります。

 

 

左手に「常盤橋(木の橋)」が見えます。

常盤橋は、江戸時代初期に紫川の東側を東曲輪として開発したときに、以前からの城下町であった西側(西曲輪)とを結ぶ橋として架設されました。

架橋当時は大橋と呼ばれ、元禄時代に架け替えられてから、常盤橋と呼ばれるようになりました。

 

 

 

勝山橋東詰

 

常盤橋は、江戸時代「小倉の五街道(長崎街道、中津街道、秋月街道、唐津街道、門司往還)」が九州各地のびるにのびる起点として、東京の日本橋のような存在です。

そういえば、東京にも大手町と本石町に常盤橋があったなあ。

 

本来ならここを経由して大宰府を目指して歩く予定だったと思うと、少し心残りです。

常盤の由来は、『金葉和歌集』の「色かへぬ松によそへて東路の常盤のはしにかかる藤浪」に由来しているそうです。

 

『 五街道 常盤で結ぶ 旅の果て 』

 

師匠の川柳は・・・

『 ジョバンニも 夢見た空の 旅の果て 』

・・・銀河鉄道の旅の果てに「そこに幸いはあるんか??」・・・大地真央でした。

 

参勤交代で九州の大名は、常盤橋周辺の本陣で休泊した後、京町を通って門司の大里湊へ向かい、江戸を目指しました。

 

常盤橋の向こうに日豊本線、鹿児島本線、山陽新幹線の線路が並行していますが、ちょうど「特急・白いソニック」が走って来ました。

 

常盤橋の東詰に「伊能忠敬 測量200年記念碑」があります。

 

伊能忠敬は、九州測量の始発点として常盤橋に立ったとあります。

 

京町銀天街を通って小倉駅に向かいます。

 

この骸骨は何ですかはてなマーク

 

看板を見たら接骨院でした。

 

小倉から今日の宿泊地博多に移動しますが、その前に小倉で夕食を食べることにしました。

自分だけ下関でフグを食べたのはズルイという非難を受け、小倉の「春帆楼」が駅近くにあるので行ってみると、残念な事に平成27年に閉店されていました。えー

食べそこないましたが、平成18年に入ったことがあるので、その時の写真をアップして食べたことにしていただきます。

 

 

諦めて、博多の中洲で屋台ラーメンに変更と言われて、内心ホッとしました。てへぺろ

 

小倉から博多の中洲までやって来ました。

 

 

夕食はフグから豚骨ラーメンになりました。

 

今夜の宿は、中洲近くの「東急ステイ福岡天神ホテル」です。

 

次回はつぎの水曜日 「博多」へつづく