大阪周遊 №45 「肥後橋・淀屋橋・北浜 レトロビル 1/4」
「大阪・歩きMENです」では、昭文社の「まっぷる・大阪さんぽ地図」を基に歩きます。
第45回は、肥後橋・淀屋橋・北浜 レトロビルです。
コース地図では二つに分かれていますので、同時にまとめて廻るため、順不同になります。
西側の肥後橋交差点からスタートします。
このコースでは「レトロビル」と「モダンビル」の比較をお楽しみください。
まず最初は「大同生命ビル」です。
足元が細く絞られていて、ビルを支える扇形の曲線が特徴的で何とも素晴らしい。
見上げると、スリムなボディの上に高さ88.8m、18階が乗っかっています。
この地は、かつて大阪の豪商「加島屋」が店を構えたところです。
加島屋というのは、あのNHK朝ドラの「あさが来た」のヒロイン今井あさ(波瑠)のモデルになった広岡浅子の実家で、 浅子は朝子は大同生命創業者です。
広岡浅子は、七転び八起きを超える「九転十起」の精神で実業界に身を投じ、炭鉱・生命保険と多くの事業を手掛けました。
やっぱり「びっくりぽん」です。
なんと・・・amazonで「びっくりぽんスタンプ」か売られていました。
どういったシチュエーションで使うのでしょうか
『 こいさんが 九転十起 ぴっくりぽん 』
『 厚労省 密で飲み会 びっくりぽん 』
師匠の川柳は・・・
『 人生の 機微を織り込む 舞台裏 』
『 三密の 記憶が遠い 独り酒 』・・・を頂きました。
今回はメモリアルホールに入れなかったので、写真をお借りしました。
ドーム状の天井は当時のデザインをそのまま復元しているそうです。
平成2年まであった旧社屋は、建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計で、ネオゴシック様式のテラコッタ外壁やチューダー式アーチ等の意匠を受け継ぎ、大正14年(1925)完成です。
現在の柱、入口の飾り、ホールの壁面等は実物を解体復元したものだそうです。
地下1階、地上8階、塔屋1階、高さ31m、ネオゴシック様式のテラコッタ外壁やチューダー式アーチ等の意匠を受け継いだものになっています。
旧社屋も、写真をお借りしました。
ビルの前には「自由」の像があります。
アルゼンチンの独立戦争の英雄「アルヴァエル将軍」とあります。
まったく知らない人です・・・
「太陽の母子像」も微笑ましい
阪神高速の高架の下に「西横堀川跡」の碑が建っています。
西横堀川は土佐堀川から分岐して道頓堀川まで続いていた川で、1600年代前期に材木商の永瀬七郎右衛門によって開削されました。
七郎右衛門堀とも呼ばれ、堀に沿って材木商が軒を並べていたところです。
大同生命ビルの東に「三井住友銀行大阪本店ビル」があります。
住友銀行は住友の総領事「伊庭貞剛」が興した銀行です。
「西玄関へお廻りください」と書いているので廻ります。
大正15年(1926)の建築で、東西74m、南北84mに及ぶ大きさは当時の住友財閥の勢いを感じます。
エントランスは黄土色の竜山石を積んだ円柱のイオニア式オーダーで、自然石の風合いが生かされた重厚な造りになっています。
細部に意匠を凝らしていますが、詳しくないのでやめときます。
三井住友銀行と隣通って三井住友信託銀行の間を通って南へ向かいます。
すぐ先に「帝国座跡」があります。
帝国座は、オッペケペ一節や壮士芝居で知られた川上音二郎が、新派の拠点として明治43年(1910)に建築した大阪最初の純洋式劇場です。
さらに南へ進むと「大阪倶楽部」があります。
大正13年(1924)築で、設計者「安井武雄」の説明によると、「南欧風ノ様式ニ東洋風ノ手法ヲ加味セルモノ」とあるとおり、旧ローマ市街の建築のような石のアーチが特徴の南欧スタイルを取り入れた重厚な外観になっていす。
大阪倶楽部の南角に「今橋ビル」があります。
元は「旧大阪市中央消防署今橋出張所」でしたが、現在は「ダル・ポンピエーレ」というイタリアンのレストランになっています。
ダル・ポンピエーレはイタリア語で「消防士」という意味だそうです。
このビルは大正14年(1925)築で、正面上部櫛形の開口部の下は消防車の車庫だったそうです。
2階と3階の窓はチューダーアーチ形で枠取り、2階にバルコニーが取り付けられています。
バルコニーの下の赤丸の箇所に消防署の赤ランプが残ったままになっています。
今橋ビルから東へ入った左手に和菓子の老舗「鶴屋八幡本店」があります。
店のホームページによると、鶴屋八幡は文久3年(1863)、今中伊八によって創業されました。起源はさらに古く、元禄15年(1702)創業の虎屋伊織が起源で、正しくは「虎屋大和大掾藤原伊織(とらややまとだいじょうふじわらのいおり)」とあります。
なんと大層な名前でしょう。
屋号の由来は、『今中家が代々大坂で刀屋を営んでいたが、その昔、家の庭に鶴が巣を 作った瑞祥と、恩人である八幡屋辰邨さんのご恩を忘れまいと「鶴屋八幡“つるややはた”」と命名し、今では“つるやはちまん”と呼び慣らされています』とあります。
今では多数の百貨店にも出店されているので、和菓子に目がない私としては大変有難い・・・
鶴屋八幡本店から今橋通を東へ進み、御堂筋の今橋3丁目交差点をさらに東へ進むと「愛珠幼稚園」があります。
園の敷地は江戸時代の銅座の跡地です。
明治13年(1880)に開園した現存する幼稚園としては大阪府内では最も古く、日本でも2番目に
古いのですが、現存ということになれば日本最古の園舎です。
ちなみに、最古の幼稚園は明治9年に開園した(1876)の東京女子師範学校附属幼稚園です。
愛珠幼稚園を北側へ回り込むと右手に塀が続いています。
塀の先で右折すると、ファミマの前に「適塾」がありますが、都会の中とはいえ、なんか変な感じです。
適塾(てきじゅく)は、蘭学者で医師の「緒方洪庵」が、天保9年(1838)に開設した私塾です。
式には適々斎塾(てきてきさいじゅく)というそうです。
緒方洪庵の号である「適々斎」が名の由来で、24年の間に幕末から明治維新にかけて活躍した人材を多く輩出しました。
適塾の入門生を挙げてみましょう・・・
大鳥圭介・大村益次郎・福澤諭吉・高峰譲吉・武田 斐三郎・花房義質・石田英吉・高松凌雲・長與專齋・佐野常民・橋本左内、等々、いずれも歴史上の人物がずらりと並びます。
残念ながら今日は定休日で入れませんでしたので、中庭の方へ回ります。
緒方洪庵の像が出迎えてくれました。
『 コロナ除け 考案してよ 洪庵さん 』
師匠の川柳は・・・
『 愛の手が コロナを超える 肺移植 』
・・・現代の洪庵が医療現場でコロナと戦っています。頭が下がります。
「緒方洪庵旧宅及び塾」の説明がいろいろ書かれていますが、その中に『洪庵の子息や適塾関係者らによって明治初期に設立された大阪仮病院や大阪医学学校を源流とする大阪帝国大学へ移管された。現在はこれを大阪大学が所有し、一般公開している・・・』とあります。
こちらの説明板は色あせてほとんど読めません。
適塾から東へ進み、堺筋の北浜1南交差点から南へ入ったところに「新井ビル」があります。
このビルは、大正11年に報徳銀行大阪支店として建てられました。 1階は、銀行建築らしく花崗岩による左右対称形のデザインになっています。 2階から上はタイル貼りで、シンプルながらも、モダンな佇まいです。 |
次回はつぎの水曜日 「肥後橋・淀屋橋・北浜 レトロビル 2/4」へつづく