大阪周遊 №15 「大阪城4/4(雁木坂・玉造口・南外濠)」

 

「大阪・歩きMENです」では、昭文社の「まっぷる・大阪さんぽ地図」を基に歩きます。

 

第15回は、JR森ノ宮駅から大阪城公園、大阪城、西の丸庭園、難波宮跡、越中公園を経て、森ノ宮駅に戻るコースですが、これを京阪天満橋駅から逆コースを歩いた、雁木坂・玉造口・南外濠です。

 

梅林から右手に内濠を見ながら雁木坂を上ります。

 

 

雁木坂を少し上がると、右手に「市正曲輪跡」があります。

 

この地は豊臣秀頼の後見人として重要な地位を占めた片桐市正且元の屋敷があったことから「市正曲輪」と呼ばれています。

且元は、豊臣の直参で、賤ケ岳七本槍の一人として豊臣姓を許された武将です。

方広寺鐘銘事件で、徳川との戦争を避けるために「秀頼の駿府と江戸への参勤」、「淀殿を江戸詰め(人質)とする」、「秀頼が大坂城を出て他国に移る」の中からひとつを早急に選ぶことを提案したが、淀殿の側近たちから家康との内通を疑われ、ついには徳川方に転じたことで知られています。

 

『江戸時代ここは長い石段(雁木)だったことから雁木坂と呼ばれ、坂を上り切った所には上部に部屋を持つ雁木坂門があり、脇には通行を監視するための番所が置かれた』とあります。

 

 

 

天守を見ながら内濠に沿って雁木坂を上がります。

 

 

途中に「南無阿弥陀仏」と刻まれた「蓮如上人真蹟の碑」が建っています。

 

石山本願寺は、戦国当時「大坂本願寺」「大坂城」と呼ばれていて、浄土真宗の寺院でありながら、防御の濠や土塁、柵で囲まれた城塞のようでした。

一躍有名になったのが、織田信長と戦った「石山合戦」です。

本願寺は織田信長と対立し、元亀元年(1570)から11年に及ぶ戦いをし、合戦の後大坂から鷺森、貝塚、天満を経て、天正19年(1591)に京都へ移転したとあります。

 

石山合戦図を見ると、もうこれは寺ではなく水路に囲われた城塞です。

石山本願寺の遺構は確認されていないが、この辺りがその遺構と推定されています。

このような構えで、雑賀党鉄砲隊の加勢があったのでは、信長もさぞや手古摺ったことでしょう。

 

司馬遼太郎の歴史小説『尻啖え孫市』(しりくらえまごいち)の自由奔放で豪快な生き方にわくわくして読んだ想い出が蘇ります。

 

雑賀衆の末裔とされる岡本傳兵衛が創業した神奈川県にある「さいか屋」という百貨店が今でも事業展開しているのをご存じだろうか・・・鈴木孫市のパワーを感じます。

 

『 孫一の 銃声響く 本願寺 』

 

師匠の川柳は・・・

『 石山の 銃が時代の 華になる 』・・・となりました。

 

遺構と推定されている所に「蓮如上人袈裟懸之松」があります。

 

 

 

蓮如上人の袈裟懸松は枯れて、切株だけになっていました。

 

 

 

傍らに新しい松が植えられていました。

 

『 蓮如松 念仏唱え ご加護待つ 』

 

師匠の川柳は・・・

『 歎異抄 奥に蓮如の 深い読み 』

       ・・・親鸞の教えをめぐって弟子たちがああだこうだと異端を説くものが現れましたが、蓮如が

         南無阿弥陀仏と念仏を唱えるだけではだめですよと、その奥義をまとめました・・・

  これは意味の深い川柳を頂きました。

 

 

袈裟懸之松の東側に「玉造口定番屋敷跡」があります。

 

 

玉造口から南外濠が見えます。

 

 

南外濠に向かって鉄砲狭間が切られています。

 

 

南からの敵も、ここから狙い撃ちされたらたまったものではありません。

 

玉造口に下りて行きます。

 

玉造口は、大坂城の東南の出入り口になります。

 

石造りの枡形になっていて、上には戊辰戦争の大火で焼失するまでは、多聞櫓が建っていたそうです。

 

玉造口を出ると、南外濠越しに「一番櫓」が見えます。

 

 

二の丸の修道館の横にあった櫓が六番櫓ですが、二の丸には南外濠に面して櫓が七番櫓まで七基並んでいたそうです。

想像しただけでも壮観だったと思いませんか。

 

玉造口の南側が「算用曲輪跡」です。

 

算用曲輪は秀吉による築城時に賃金などの計算(算用)が行われた場所とも、大坂城に納められた年貢や金銀の計算が行われていたからともいわれています。

江戸時代になって、ここは大きな杉の大木が聳えの小山となったため、「杉山」とも呼ばれるようになったとあります。

 

ここからは天守の上半分が望めます。

 

 

南外濠の広さ、凄さが分かります。

 

南外濠の長さは約東西600m、幅約70m、石垣上からの深さは20m以上というから、その凄さは半端ではありません。

 

 

「戦国武将の大判焼き」につられて一つゲットしました。

 

大判焼きは関東で言う今川焼です。

九州・関西では回転焼きとも呼んでいます。

私の故郷神戸では太鼓饅頭と言っていました。

 

こんな凄い濠に阻まれていたのでは、大坂城を攻略することは至難の業でしょう。

 

しかも、冬の陣では、ここから南に陣取っていた真田丸攻撃で、徳川勢は真田幸村によって散々な目にあわされています。

家康がここを埋めて、大坂城を裸城にしてしまいたいと考えるのはむべなるかなでしょう。

 

『 淀殿も 狸の知恵で 素っ裸 』

 

師匠の川柳は・・・

『 堀を埋め ニヤリ狸の 笑う冬 』

  ・・・淀殿(堀)の裸を見ると家康ならずとも助平笑いをしてしまいそうです。

 

 

南外濠は凹の字形になっていて、石垣の総延長は2kmに渡ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

南外濠の西側に小さな祠がありました。

 

六番櫓です。

 

 

 

大坂冬の陣では真田幸村の大活躍で徳川方が手を焼き、徳川秀忠は総攻撃を進言したが、家康は「敵を侮る事を戒め戦わずに勝つ事を考えよ」と諫め、砲弾を大坂城内に打ち込んだ結果、淀殿以下豊臣の女たちが震え上がり、和平交渉となりました。

和平会議では、大坂城は本丸のみの濠を残して、二ノ丸・三ノ丸の濠を破却することが、口頭で約束され、総濠が徳川方によって埋め立てられることとなました。

二ノ丸、三ノ丸の南外濠は大坂方の担当でしたが、家康はこれを無視して濠を短期日に埋めつくし、難攻不落の名城も裸同然になってしまいました。

それにしても、この図を見ると見事に周りを徳川方に包囲されたものです。

やはり南側が大阪城の守りのウイークポイントだということが良く分かります。

真田幸村がそれをカバーするために真田丸を構築したのが理解できます。

真田丸については、次々回にアップする予定です。

 

先日、NHK・BSP『英雄たちの選択』で、「大坂冬の陣図屏風」がデジタル技術を駆使して想定復元された放映を見ました。

 

この絵図から当時の大坂城の様子が読み取れると番組で紹介されていました。

絵図の内容から推測すると、豊臣贔屓の太守が発注者だということらしいです。

 

六番櫓です。

 

しばらく南外濠と六番櫓を見ながら、ここに七番櫓も並んでいたのを想像しながら眺めましょう。

 

櫓が並ぶとこんな感じです。

大阪市教育委員会さんの古写真をお借りしました。

 

 

 

こうして南外濠を廻ってみるとその凄さに圧倒されます。

 

南外濠の向こうに生駒山が見えます。

 

これで北外濠と東外濠以外の濠はすべて廻ってきました。

 

南外濠の西端に「生國魂神社」の御旅所跡があります。

 

 

変則ローソンで少し休憩です。

 

次回はつぎの土曜日 「法円坂遺跡・難波宮・越中公園・森ノ宮」へつづく