山陽道 №63(三石駅~八木山)
このブログは「緊急事態宣言」が発令される前に行動したものです。
今回は三石駅から香登駅まで、18kmの行程です。
船坂川を渡ります。
改めて、前回見た「三石一里塚跡」を確認します。
左手には「三石耐火煉瓦」さんの年季の入った煙突が目を引きます。
蔦の絡んだ社屋も魅力的です。
「俳人芭蕉の高弟・志太野坡句碑の地」の立て看板が・・・三石神社の境内にあると書かれています。
三石神社はすぐ横にありました。
三石神社は、今から千有余年の昔、懐妊していた神功皇后が西へ向かう途中、ここで休憩しましたが、このとき、神功皇后が座った石を始め境内にあったすべての岩や石が皆白い石を孕んだようになったとあります。
それ以来、別名を孕石(はらみいし)神社とか、子孕神社と呼ばれ、子宝を授かりたい人や安産を願う人々が祈願を受けに訪れるようになりました。
さっき見た立看板どおり、境内には芭蕉の高弟・志太野坡(しだ やば)の大きな句碑がありました。
何て書いているのか読み取ろうと頑張ってみたが、どうにも分かりません。
すぐ先に「三石城址登山口」があります。
三石城は、鎌倉時代の末期に三石保の地頭「伊東大和二郎」が南朝方に加勢し居館の背後にある天王山に城を築いたことに始まると伝えられています。
戦国時代になると赤松則祐の守護代「浦上宗隆」の居城となりました。
城址はここから500m上った標高291mの天王山山頂にあるらしいが、結構時間がかかるようなので、またの機会に譲ることにしました・・・またの機会なんてあるのかな
船坂川に架かる「大橋」を渡ります。
川っ縁を歩いていたら、後ろから走ってきた車がわざわざ停まり、中から地元の人らしきオジサンと言うより同年配の人が「この先の橋を渡った先に四連の橋があるから見に行ったら」と言う。
さらに「何なら送ってやるよ」と、ご親切なのか、おせっかいなのか分からないお言葉・・・
「いや、今から歩いて行くつもりなので」と丁重にお断りした。
前回の深谷の滝では少し距離があったのでお言葉に甘えたが、いったいこの土地の人は旅人に親切なのか、自分達の土地をアピールしたいのか。
いずれにしてもほかの土地では経験したことのない人情?に触れることとなりました。
船坂川の支流「金剛川」に沿って200mほど行くと、前方に「四連の橋」が見えてきました。
北側の1連は道路を跨ぎ、真ん中の2連は金剛川を跨いでいます。
南側の1連は、川と道路を半々に跨いでいて、高さもアーチ径も大き目になっています。
南側の一連を潜ります。
レンガがキッチリと緻密に積み上げられています。
東側に出てみました。
四連橋の上はJR山陽本線が走っています。
手前には歩道橋が架けられていて、そこから四連橋が間近に見えます。
ところが、ガードレールが邪魔になって、全体の姿が収まりません。
こんなとき魚眼レンズがあればなあと思います。
しゃがみこんでガードレールの隙間から川を跨いている3連目を撮ってみました。
天井部分もレンガ積みが揃っていたが、外壁のアーチはさらに美しい。
この橋は、明治23~24年に第1線、明治44年に第2線が開業していますが、三石駅の傍にあった「三石耐火煉瓦」の創業が明治25年12月とありますから、第2線の煉瓦を提供したのではないかと勝手に推察します。
花崗岩を円形に積み上げた隅石も綺麗に整っていて見ごたえがあります。
正式名は「三石金剛川橋梁」でした。
「土木学会選奨土木遺産」とあります。
レンガと言えばその昔、レンガを積んで花壇を造ったまでは良かったが、まともに花が咲いた記憶がありません。
『 ガーデンに レンガを積むは 小市民 』
『 花畑 いつの間にやら 菜園に 』
師匠の川柳は・・・
『 霧雨の 別れに濡れる 赤レンガ 』
『 青虫に 大根の葉を お裾分け 』・・・うまい 座布団二枚
すぐ目の前にさっき見た山陽本線の高架トンネルが口を開け、右手には「光明寺」の社碑が建っています。
参道の奥に姿の良い山門が見えます。
山門の脇に「明治天皇三石行在所」の碑が建っています。
山門は見事な「鐘楼門」になっています。
この山門、平成16年4月吉日に修復したとあります。
山門の中に地蔵尊が安置されていました。
境内には「頌徳碑」が建っていて上部に胸像が設えられています。
下部に「宇垣一成」とあります。
これは岡山出身の陸軍大将宇垣一成でした。
宇垣は軍人でありながら戦争反対の立場を取り、東條内閣打倒に苦心した人で、戦後は参議院議員を全うしました。
真ん中の碑は「奉唱光明真言百万遍塔」と分かりましたが、左は宝篋印塔、右は弘法大師の卒塔婆のようです。
客殿の前にも地域の経済力を物語るような立派な「明治天皇行在所」の碑が建っていました。
本堂の前に可愛らしい「狸の托鉢僧」が居ます。
これは信楽焼ではなく備前焼のタヌキですね。
タヌキの置物といえばあれですよね・・・
『 狸には 引け目感じる 金袋 』
師匠の川柳は・・・
『 人間に 化けた狸の 目に涙 』・・・狸でも修業は辛いものです。
本堂の奥には真言宗らしく「大師堂」があります。
堂内を覗くと、正面に弘法大師の像が祀られていました。
弘法大師
光明寺の前に山陽本線を潜るトンネルがあります。
ここも見事なレンガ造りです。
ここも「土木学会選奨土木遺産」でしょうか、トンネルの中の天井から側面に至るまでびっしりとレンガで埋め尽くされています。
ヴォールトと呼ばれるアーチ型の樋管構造になっています。
トンネルを潜るとすぐ左に「木野山神社参道」の社碑が建っています。
行ってみようかどうか迷ったが、聞いたこともない神社だし「まあいいか」とパスしました。
ところが後で分かったのですが、100mほど上がると、あの四連の金剛川橋梁から山陽本線が大きくカーブして、さっき見たトンネルの上を走る三石の町が俯瞰できたらしいのです。
仕方ないので写真をお借りしたいと思います。
これを見ると「行けば良かった」と後悔しています。
右からコンクリート壁が迫ってきました。
その先に砕石処理場のようなのが現れました。
「品川開発」という露天掘り鉱山会社で、この白い石は「ロウ石」です。
中江木工所の前で山陽道は国道2号線に合流します。
国道は「弟坂」という上り坂になっています。
この辺りから「三石ハイセラム」とか「大平」「土山鉱山」といったロウ石の採石・加工の工場が続きます。
三石ハイセラムの手前にある「清水の地蔵」を見落としていたことが後で分かりました。
これも不自由分な地図を頼りにした結果です。
弟坂を上り詰めた所が「大西峠」です。
峠と言っても広い国道なので峠と言う感じはありません。
ロウ石の山が現れました。
『 ロウ石で 描くアトムの 勇ましさ 』
師匠の川柳は・・・
『 蝋石の 絵にけんけんで 育つ子ら 』
・・・昔はロウ石一つで遊びのバリエーションは広がりました。
大西峠からの下り坂は「兄坂」と呼ばれています。
『 兄弟で 上下不明の 坂の道 』
師匠の川柳は・・・
『 分かれ道 覚悟の胸に 細い雨 』・・・分かれ道を覚悟の選択も、当分は心細いものです。
啓和ファインマテリアルへ入って行きそうになりましたが、途中で気が付いて戻りました。
国道2号線歩きはまだ続きます。
左前方に「備前インターチェンジ」が見えるなあと思いながら、右側の赤い線の方へ入ってしまいました。
途中で道が大きくカーブしてきたので、「何か変だなあ」と思いながら進んでいくと、道路わきでオレンジの作業着を着た人がゴミ集めをしていました。
するとその中の一人がこちらに向かってきて、「ここは入ってはだめですよ」と制止されてしまいました。
どうやらインターチェンジのループ状の部分に入ってしまったようです。
「あれぇ、国道と違うのですか」と言うと、「ここは高速道路ですよ」「片上の方へ行きたいのですがどうしたらいいんですか」「しょうがないね、私のあとについて来なさい」と言って国道へ抜ける道を案内してくれました。
どうやら徒歩で逆送してしまったみたいです。
『 人生は 逆送できず 一度きり 』
師匠の川柳は・・・
『 真っ直ぐに 生きてきた日の 白い百合 』・・・人生、道案内をしてくれた人に感謝です。
山陽自動車道を潜ります。
すぐ先で国道から旧道へ入ります。
八木山の集落に入ると「薬師如来霊場参道入口」の碑が建っていましたが、ここもパスします。
しばらく八木山の集落を進みます。
ネット越しにワンちゃんが柵に寄っかかってこちらを見ています。
いつもこうやって道行く人を見てくれてるんですね。
再び国道に合流する右手に洞窟がありました。
ここも鉱山の跡なのでしょうか、それとも防空壕?
すぐ先に石地蔵様が二体・・・
またしばらくは退屈な国道歩きです。
左手に山陽自動車道が見えるだけで、変化のない国道を進みます。
しばらく行くと「八木山石地蔵」が現れました。
山陽自動車道を潜ります。
遠くに何やら看板が見えます。
近寄ってみると信号を右へ2.7km行くと「閑谷学校」があると書かれています。
閑谷学校といえば、江戸時代に岡山藩が開いた庶民のための学校です。
特別史跡で講堂は国宝に指定され、長州藩の明倫館、水戸藩の弘道館と並んで、日本三大学府の一つになっています。
ここは以前から一度行ってみたいと思っていた所ですが、片道2.7km、往復5.4km、ここは思案のしどころです。
次回はつぎの水曜日 「八木山~浄光寺」へつづく