山陽道 №58(有年駅~有年宿)

このブログは「緊急事態宣言」が発令される前に行動したものです。

 

有年駅南口からスタートです。

 

有年駅前は再開発中ですが、明治の頃は山陽鉄道の駅でした。

大正になって赤穂鉄道の駅になり、昭和になって国鉄赤穂線の開通で赤穂鉄道は廃線となって、国鉄の有年駅になったとあります。

 

 

国道2号線の赤穂駅前交差点を南へ越えて山陽道に出ます。

 

赤穂のしほみ饅頭「総本家かん川」の店がここにもありました。

 

山陽道に入ると「有年村村道路元標」があります。

石碑の字が消えているので、ご丁寧に標柱が横に添えられています。

石碑だけだと見落としますが、これなら分かりやすい。

 

ここにも前回見た赤穂の市内循環バス「ゆらのすけ」のバス停がありました。

時刻表を見ると運行は、月・水・金の週回で、一日4本になっています。

これでも地域の人にとっては重要な路線なんでしょうね。

 

街道の雰囲気が少しばかり残る道を進みます。

 

ホルモン・お好み焼の看板も見えますが、商売になっているのでしょうか。

 

矢野川の支流でしょうか小さな川を渡ります。

 

 

川はここで曲がって街道に沿って流れています。

 

横尾中町に入ります。

 

この辺りはこのスタイルの家が目立ちます。

 

ちゃんと美容室までありますが店は閉まっていました。

 

ずうっと歩いていても、歩行者も車もお目にかかませんし、シャッターが下りている店舗も多いですね。

 

赤穂市内でもカラフルなマンホールを見ましたが、ここは地味に「赤穂市の市章」と「亀甲模様」だけです。

 

有年横尾の歩道橋の所で国道2号線に合流します。

 

道の側面が崩れそうな崖になっています。

 

国道2号線は「大阪から119km」とあります。

東京で言うと、小田原、甲府、高崎、宇都宮あたりといったところでしょうか。

 

しばらく国道2号線を歩きますが、街道歩きでは面白味もなく嫌な道中です。

 

 

田中遺跡まで1kmとあります。

少し興味をそそられましたが、ここはパスしましょう。

 

前回、さんざん見てきた矢野川を渡ります。

 

橋桁が浮袋になっている不思議な橋が渡されています。

増水しても大丈夫なのでしょうね。

 

有年原までやって来ました。

国道373号線の分岐点で、右へ行くと作用・上郡です。

 

有年原交差点

 

すぐ先にファミマがあったのでトイレタイムです。

 

店の前で若い外国人が二人座り込んでいました。

横に荷物を満載したタイヤ太目のツーリングサイクルを停めています。

これは一つ話しかけないと、と思って「Where did you come from と聞くと、「San Francisco USA 」と返ってきました。

さらに、聞きもしないのに「We are cycling around Japan 」と言ったように思ったので、「It is amazing  I'm walking on a historic old road 」と返すと、「You too・・・×?φ?θ?・・・」と色々言い出したので、これ以上深入りすると当方の拙い英会話力がバレると思い、「Have a nice day watch out 」と笑いながら、なんとかその場をごまかしてお別れしました。ニヤリ

それにしても、サイクリングで日本一周しているとは、アメリカにも凄い人がいたものです。

 

『 外人に 勇んで話し 恥をかき 』

 

師匠の川柳は・・・

『 雑談に 汗迸る 英会話 』・・・最初は乗りでしたが、途中で汗がほとばしってきましたよ。

 

 

ファミマの横にあった「ドライブインちくさ川」が寂れて廃墟のようになっていました。

コンビニの繁栄とドライブインの衰退を見比べているようです。

 

千種川に架かる有年橋を渡ります。

 

歩行者は歩道を通ります。

 

赤穂で見た千種川です。

 

何故か気持ちの良い ? 国道を歩きます。

 

国道を歩くのが気持ちが良いと言うのも変ですが、緑豊かな山景がそう思わせるのでしょう。

 

山陽道は東有年の歩道橋の先で国道2号線と分かれます。

 

 

この辺りから「有年(うね)宿」に入ります。

 

少しは街道らしくなってきました。

 

この家は虫籠窓を残して二階の壁と窓をリホームしていますね。

 

まだ宿場らしき建物が現れませんね。

 

左手に標柱が見えます。

 

「有年村役場跡」でした。

明治22年(1889)、ここに有年村役場が建てられ、昭和30年1955)に赤穂市に編入されたとあります。

玄関部分と門柱は有年考古館に移築保存されています。

 

白壁土蔵が現れ、ようやく宿場町らしくなって来ました。

 

二階建ての長屋門のような建物です。

 

東有年自治会館の前に「有年宿」の解説板があります。

 

有年宿に高瀬舟灯台と大波止、小波止があったとあります。 

 

千種川に高瀬舟が航行していたということですが、そう言えば前に赤穂街道を歩いたときに、坂越の町はずれの千種川畔に下の写真の様に高瀬舟船着場跡がありましたね。

 

この絵図の様な宿場町に「蔦屋・菊屋・丸屋」といった数十軒の旅籠が軒を連ねていたそうです。

 

高瀬舟灯台

 

有年宿に「本陣跡」があるはずだがどうやら行き過ぎたらしい。

確か路地の奥にあるというので道を引き返しながら、それらしい路地に当たりを付けて入って行くとありました。

「明治天皇駐輦記念碑」の前に「有年宿本陣跡(旧柳原家宅跡)」の木碑が・・・こういうのってホント、疲れるうぅぅ・・・


 

街道筋に戻りしばらく行くと小公園に「有年宿番所跡(旧松下家宅跡)」があります。

 

有年宿番所跡のすぐ先を右折すると、再び国道2号線に出ました。

そこは「東有年」の交差点で、山陽道は国道を横切って北へ向かいます。

 

すぐ右手に「八幡神社」の森が見えます。

 

鳥居の前が駐車場代わりにされていて困ったものです。

 

この鳥居は、延享元年(1744)に建立され、258年の間風雪に耐えながら有年の移り変わりを見守ってきたとあります。

 

さらに100mほど行ったところに「有年家長屋門」があります。

 

有年は前に「うね」と読みますと言いましたが、ここでは「ありとし」となっていますね。

地名は「うね」、人名は「ありとし」と使い分けているのでしょうか。

 

この長屋門、一間の長さを6尺5寸(197cm)とせず、6尺6寸(200cm)としているのが珍しいらしい。

正面は石垣によって土台が築かれ、背面は礎石建てとしています。

 

さらに100mほど行くと「光明寺」があります。

 

光明寺をちらっと見てしばらく行くと子供の声が聞こえてきました。

久しぶりの人の声です。

それは有年幼稚園からの声でした。

園の前に数人の園児とお母さん方が集まっていました。

こんな田舎に若いお母さん達と子供達がいると思うと、何か安心しますね。

 

『 少子化で 跡継ぎも減り 農地減り 』

 

師匠の川柳は・・・

『 人もなく レンゲが群れて 咲く棚田 』・・・日本の原風景はいつまでも守って欲しいものです。

 

 

幼稚園から山裾を巻くように進むと、工場らしきトタン張りの建物の前にお地蔵さんが鎮座しています。

この左右の取り合わせ、なとかならんもんですかなあ・・・!!

 

お地蔵さんの左右には南無阿弥陀仏の題目碑が並んでいます。

こちら側だけ見ると様になりますね。

 

こういう似たような道が二俣になっているとどちらが正解か迷いますね。

 

ダラダラ、のんびりと歩いていると有年小学校からも生徒の声が聞こえてきました。

 

すぐ先に「淳泰寺」が現れました。

 

山門をくぐります。

 

境内はやや狭いながらも、手入れが行き届きすっきりとしています。

 

この建物は何でしょうか。

入り口が普通の家の玄関のようになっていて、裏はサッシ窓、二階は火灯窓のように線が絵描かれているだけで、変わった造りになっています。

 

鐘楼はちゃんとした造りです。

 

次回はつぎの土曜日 「有年宿~有年峠入口」へつづく