赤穂街道 №48(義士木像奉安殿)

大石神社を一回りした後「義士木像奉安殿・義士宝物殿」に入ります。

 

 

 

 

「義士木像奉安殿」から見ていきます。

義士それぞれの役職、エピソード等は像の前に置かれている説明書とWikipedia等を引用しました。

 

「おのおの方、お出合いそうらえ、浅野殿、刃傷にござるぞ」 吉良に斬りかかる内匠頭を、背後から取り押さえた梶川与惣兵衛に、「御放しくだされ、梶川殿。五万三千石、所領も捨て、家臣も捨てての刃傷にござる」と、これは真山一郎が歌った歌謡浪曲や芝居・ドラマなどでもおなじみのシーンです。

浅野内匠頭が刃傷に及んだ時、吉良上野介に二太刀浴びせたが、なぜ、切りつけずに突かなかったのか疑問に思う。

おそらく強い殺意より、気が短い内匠頭頭にきて思起こしてしまった狂乱だったのではないかと思います。

また、この時、梶川与惣兵衛が止めなければ上野介は内匠頭に殺され、単なる刃傷事件として歴史の片隅には残ったものの、その後の赤穂浪士の討ち入りは起きなかった。

そうなれば、今もって色あせない忠臣蔵という壮大な物語は存在していない訳で、その意味では梶川与惣兵衛は忠臣蔵の生みの親、名プロデューサーだと言える・・・なんて事を義士木像を見ていて思うのでした。

 

ここでダジャレ川柳を思いつきました。

   『 電柱で ござるぞここは お犬殿 』

 

師匠の川柳は・・・

『 オペラ座で 日本文化が 見得を切る 』・・・となりました。

 

では、お後がよろしいようで・・・順次、義士木像を見ていきましょう。

 

赤穂藩5万3000石第3代藩主、「浅野内匠頭長矩」

江戸城松の廊下で吉良上野介義央に刃傷に及び、切腹した。

行年35歳。辞世は「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせん」

 

国家老で1500石、討ち入りの指導者、「大石内蔵助良雄」

行年45歳。辞世は「あら楽や 思ひは晴るゝ 身は捨つる 浮世の月に かゝる雲なし」

江戸からの凶報を聞き、裃に威儀を正して佩刀を手に登城しょうと大石邸をでんとする姿です。

 

ここから大石内蔵助を含めて23人の「表門隊」です

 

原惣右衛門元辰 足軽頭、300石。 江戸の急進派。

行年56歳。辞世は「君がため 思もつもる 白雪を 散らすは今朝の 嶺の松風」

山科の閑居を訪れ、内蔵助の意見を傾聴している姿です。

 

「片岡源五右衛門高房」 側用人・児小姓頭、350石。

浅野長矩切腹の際に最後の対面をした。 江戸の急進派で行年37歳。

田村邸で切腹直前の内匠頭と最後の決別をしながら主君の最後を見送る姿です。

 

「堀部弥兵衛金丸」 前江戸留守居、前300石、隠居料20石で、ち最年長者。

行年77歳。辞世は「雪はれて 思ひを遂る あしたかな」。

主君から拝領した紋服に裃を着け、矍鑠として昔語りをしている姿です。

 

「近松勘六行重」 馬廻、250石。

討ち入りの際、泉水に落ち負傷した。 行年34歳。

師の山鹿素行が著した武教小学を熟読玩味している姿です。

 

「間瀬久太夫正明」 大目付、200石役料50石。 城明け渡しでは一切の政務を処理した。

行年63歳。

討入計画を討議の席上、毅然とした態度で意見を述べている姿です。

 

「富森助右衛門正因」 馬廻・使番、200石。

行年34歳。

辞世は「先立し 人もありけり けふの日を つひの旅路の 思ひ出にして」

矢立ての筆をぬらし、懐紙を手に句を練り認めている姿です。

 

「早水藤左衛門満尭」 馬廻、150石。刃傷事件の第一報を江戸から赤穂へ早駕籠に乗って伝えた。

行年40歳。 辞世は「地水火風 空のうちより 出し身の たどりて帰る もとのすみかに」

弓の達人の藤左衛門が名人星野勘左衛門の指南を受けている姿です。

 

「奥田孫大夫重盛」 武具奉行・150石。 仇討ち急進派の中心人物。

旧主、内藤和泉守の刃傷でお家断絶となり、また浅野家の断絶で二度も刃傷による主家の断絶に遭っている。 行年57歳。

直真影流の達人で、八相の構えで武技を練っている姿です。

 

「矢田五郎右衛門助武」 馬廻・江戸定府、150石。 敵の不意打ちに遭うも敵を真っ二つにし、下の唐金の火鉢まで真っ二つにしたという豪傑。 行年29歳。

凶報にもはやこれまでと、決意を眉宇に登城する姿です。

 

「大高源吾忠雄」 金奉行・膳番元方・腰物方、20石5人扶持。

吉良家出入りの茶人に接近して12月14日の吉良屋敷で茶会があることを聞きつけた。

俳諧の宝井其角と交流があり、「年の瀬や水の流れと人の身は」に対し、「あしたたるゝその宝船」と辺句した話は有名である。

行年32歳。 辞世は「梅で呑む茶屋もあるべし死出の山」

俳人源吾が俳句の想を練っている姿です。

 

「村松喜兵衛秀直」 扶持奉行・江戸定府、20石5人扶持。

行年62歳。 辞世は「命にも かえぬ一を うしなはば 逃げかくれても こゝを逃れん」を兜頭巾の裏に書き込んでいた。

籠城に加わらんと赤穂に駆け付ける途中、富士を仰いでいる姿です。

 

「岡嶋八十右衛門常樹」 札座勘定奉行、20石5人扶持で原惣右衛門の弟。

行年38歳。

藩札の引換を領民優先にするよう、大野九郎兵衛を説得している姿です。

 

「勝田新左衛門武堯」 札座横目、15石3人扶持。 行年24歳。

若輩ながら武勇に優れ、愛刀の手入れとともに、精神練磨をしている姿です。

 

「神崎与五郎則休」 徒目付、5両3人扶持。

江戸へ下る途中、箱根の山中で、馬方の丑五郎に無礼ないいがかりをつけられたが、大事の前の小事と、「カンザケヨカロウ」の詫証文を書いて謝った。股くぐりをしたという逸話もある。

行年38歳。 辞世は「余の星はよそ目づかひや天の川」。

吉良邸の門前で店を構え、屋根の上から吉良邸の中を見下ろしている姿です。

 

「武林唯七隆重」 馬廻、15両3人扶持。 祖父は中国からの帰化人。

吉良上野介の養子義周と切り結び取り逃がしたが、炭小屋に隠れていた上野介を討ち取った。

行年32歳。 辞世は「三十年来一夢中 捨身取義夢尚同 双親臥病故郷在 取義捨恩夢共空」、さすが帰化人の孫です。

眉宇に決意を漲らせ、お城へ駆けつけようとする姿です。

 

「吉田沢右衛門兼定」 部屋住みで蔵奉行吉田忠左衛門の長男。

浅野家きっての美男子で、江戸へ下る途中、大井川の渡しで、川人足の雲助に酒手をねだられたので、刀に手をかけようとしたが、大事の前の小事と我慢した。 行年29歳。

像を見る限り美男子とは?

父の忠左衛門に兵法を学ばんとして、父の部屋に入ろうとする姿です。

 

「貝賀彌左衛門友信」 中小姓・蔵奉行、10両3人扶持。 吉田忠左衛門の弟。

大高源吾と共に連判状を返しに廻り、志の低い同志を淘汰した。 行年54歳。

城明け渡しに際し、城内外の整理に当たり、米蔵の管理指図をしている姿です。

 

「横川勘平宗利」 徒目付、5両3人扶持。 大高源吾とは別に、12月14日に吉良屋敷で茶会があることを調べた。 お軽・勘平の勘平は萱野三平のことで別人である。

行年37歳。辞世は「まてしばし 死出の遅速は あらんとも まつさきかけて 道しるべせむ」。

同志と共に過ぎ去った苦心のあとを省みて本懐を遂げる日を楽しみに語り合っている姿です。

 

「小野寺幸右衛門秀富」 部屋住み。小野寺秀和の養子で大高源吾の実弟。

討ち入りの際、吉良屋敷の広間に立てかけていた沢山の弓の弦を、咄嗟の起点で機転で落とした。

行年28歳。 辞世は「今朝もはやいふ言の葉もなかりけりなにのためとて露むすぶらん」。

義母実母の身の上を気遣い、二人の世話を依頼する手紙をしたためている姿です。

 

「間十次郎光興」 部屋住み。間光延の長男。吉良上野介に一番槍をつけ、その首級をあげた。行年26歳。 辞世は「終にその待つにぞ露の玉の緒のけふ絶えて行く死出の山道」。

槍術の稽古姿で一休みしている姿です。

 

「岡野金右衛門包秀」 部屋住み。美男で忠臣蔵の物語では大工の娘を通じて吉良屋敷の図面を手に入れている。小野寺十内は伯父、大高源吾、小野寺幸右衛門は従兄弟。

行年24歳。 辞世は「その匂ひ雪のあさぢの野梅かな」。

手に入れた吉良邸の絵図面を喰い入るように見つめている姿です。

 

「矢頭右衛門七教兼」 部屋住み。父長助ともに義盟に加わったが仇討ち決行前に父は病死した。 行年18歳。

江戸へ下るときの純情可憐な道中姿です。

 

ここから大石主税を含めて24人の「裏門隊」です

 

 

「大石主税良金」 部屋住み。大石良雄の長男。討ち入りのときは吉田忠左衛門を後見に裏門の大将をつとめる。

義士中最年少で、吉良屋敷の抜け穴に率先して入った。

行年16歳。 辞世は「あふ時はかたりつくすとおもへども別れとなればのこる言の葉」。

凶報を聞いて父の内蔵助が玄関を出て行く姿を、心配そうに見送っている姿です。

 

「吉田忠左衛門兼亮」 足軽頭・郡奉行、200石役料50石。浪士の中では大石内蔵助に次ぐ人物として、これを補佐した。

行年64歳。 辞世は「かねてより君と母とにしらせんと人よりいそぐ死出の山道」。

泉岳寺へ引揚の途中、大目付仙石伯耆守邸へ出向き、玄関前で両刀を右手に持ちかえ、恭順の意を現した、討入装束の姿です。

 

「堀部安兵衛武庸」 馬廻使番、200石。越後新発田藩出身で、旧姓は中山。

父の代に新発田藩を放逐となり浪人していたが、高田馬場の助太刀で勇名をはせ、堀部弥兵衛の婿養子となり、赤穂浅野家の家臣となる。仇討ち急進派の中心人物。

剣は奥田孫大夫とともに堀内道場の四天王と言われ、討ち入りでは大太刀を持って大いに奮戦したと伝わる。

行年34歳。 辞世は「梓弓ためしにも引け武士の道は迷はぬ跡と思はば」。

呑んべ安といわれたた安兵衛が、大杯を手に酔眼の中にもおかし難い風格のある姿です。

 

「潮田又之丞高教」 郡奉行、絵図奉行、200石。妻が内蔵助と従妹の関係。

吉良義央を討ち取るとその首級を槍先に括りつけ引き揚げた。

行年35歳。 辞世は「武士の道とばかりを一筋に思ひ立ぬる死出の旅路を」。

とるものもとりあえず城内へ駆けつけようと、愛刀を手にすっくと立上がった、雄々しい姿です。

 

「赤垣源蔵重賢」 馬廻、200石。忠臣蔵では兄である竜野脇坂家の塩山伊左衛門との「徳利の別れ」で有名であるが、実際は下戸でこれは後の作り話である。  行年35歳。

討入りの前日、饅頭笠に雨合羽姿で、兄の家に出かける姿です。

 

「小野寺十内秀和」 京都留守居役、150石役料70石。 資性温厚で和歌を嗜み、内蔵助の良き相談相手である。

行年61歳。 辞世は「今ははや言の葉草もなかりけり何のためとて露結ぶらむ」。

京都の浪宅で好きな和歌の書物を見ている、静寂なひとときの姿です。

 

「磯貝十郎左衛門正久」 側用人物頭、150石。鼓の名手で切腹のあと紫縮緬の袋を開けてみると中から琴の爪が出てきた。 行年25歳。

主君を偲び鼓を打たんと、裃姿で端座している姿です。

 

「木村岡右衛門貞行」 馬廻・絵図奉行、150石。

義挙の顛末と藩士の忠奸を後世に伝える『赤城盟伝』に漢文の跋文を書いている。

行年46歳。辞世は「おもひきや我が武士の道ならで御法のゑんにあふとは」。

浪々のうちにも、学問に励み静かに漢籍を書見している姿です。

 

「大石瀬左衛門信清」 馬廻、150石。 行年27歳。

江戸から内匠頭切腹を知らせる早打ちの第二段で早駕籠に揺られ、高取峠で赤穂城を遠望する姿です。

 

「中村勘助正辰」 書物役、100石。

家族を預けるため木曽路を経て生まれ故郷の奥州白河に赴き、その足で江戸へ出、山彦嘉兵衛し変名し敵情を探った。

行年46歳。辞世は「梅が香や日足を伝ふ大書院」。

江戸から山科の同志に対し、一刻も早く行動を起こすよう檄文を認めている姿です。

 

「菅谷半之丞正利」 馬廻・郡代、100石。行年年44歳。

講談では大変な美男子で、父の後妻から

邪恋を仕掛けられたが、告げ口によって勘当されたものの、主君の計らいで身を隠したという作り話になっている。

内蔵助に従って、忠義一徹心を胸中に、東海道を旅する姿です。

 

「千馬三郎兵衛光忠」 馬廻改役、100石。行年51歳。

内匠頭と意見が合わず主家を逐散するつもりでいたところ、気を取り直し討入りに加わり、雪の中得意の槍を持って討ち入った姿です。

 

「不破数右衛門正種」 元馬廻・浜奉行、元100石。

浪人していたが懇願して義盟に加わり、討ち入りでは45人もの敵を切り倒して最もめざましい働きをしたと伝わる。 行年34歳。

主君長矩の墓に詣で、帰参の許しを得ている姿です。

 

「間喜兵衛光延」 勝手方吟味役、100石。

行年69歳。辞世は「草枕むすぶ仮寐の夢さめて常世にかへる春の曙」。

江戸に出て、按摩に身をやつし苦労に耐えようとしている姿です。

 

「倉橋伝助武幸」 扶持奉行・中小姓、20石5人扶持。行年34歳。

講談では、旗本の次男だったが、浅野家に中間奉公し、弓馬の達人だったことから内匠頭に召し出されたとなっている。

仇討という将来の希望に、静かに瞑想にふけっている姿です。

 

「前原伊助宗房」 金奉行・中小姓、10石3人扶持。

江戸で米屋五兵衛を開き吉良屋敷を探索した。浪士たちの集合場所の一つとなり何人かはここから吉良邸に向かった。

神崎与五郎との共著で『赤城盟伝』を書いている。

行年40歳。 辞世は「春来んとさしもしらじな年月のふりゆくものは人の白髪」。

米屋を始めながら、吉良邸の動静を探っていた伊助が、前垂れ姿に天秤棒、通帳を手にした姿です。

 

「奥田貞右衛門行高」 加東郡勘定方、9石3人扶持。

近松勘六の弟奥田孫大夫の養子となり、江戸に出て偽医者となって敵情偵察を行った。

行年26歳。

江戸に出て偽医者となって敵情を探っている時の姿です。

 

「杉野十平次次房」 札座横目、8両3人扶持。行年28歳。

当り屋十兵衛という夜泣き蕎麦屋となって、吉良の門前で商いをしながら動静を探っているとき、宝蔵院流槍の名人俵星玄蕃と知り合いになったという創話が有名である。

討ち入りの当夜、玄蕃が『吉良の屋敷に来てみれば、今、討ち入りは真っ最中、総大将の内蔵助見つけて駆け寄る俵星が、天下無双のこの槍で、お助太刀をば致そうぞ』と助太刀を申し出、内蔵助に『深き御恩はこの通り、厚く御礼を申します。されど此処は此のままに、槍を納めて御引上げ下さるならば有難し』というやり取りを歌った、三波春夫の『元禄名槍譜・俵星玄蕃』という歌謡浪曲は私の十八番となりました。

若年ながら思慮深く、重厚な面持ちで、心静かに物を思っている姿です。

 

「茅野和助常成」 横目付、5石3人扶持。

大石主税に従って東下りをし、町医者となって敵情を探った。

行年37歳。 辞世は「天の外はあらじな千種たに本さく野辺に枯るると思へば」「世や命咲野にかかる世や命」「日あたりや雪吹のけて梅を先づ」。

江戸に出て町医者となり、薬箱を手に吉良邸付近を往来し、敵情を探っている姿です。

 

「村松三太夫高直」 部屋住み。村松秀直の長男。

父から母の面倒を見るように申し付けられたが、母は弟が見るからと切願し、父子揃って討ち入りに加わった。

行年27歳。 辞世は「極楽を断りなしに通らばや弥陀諸共に四十八人」。

父の後を追って江戸から赤穂へ出発しようとする姿です。

 

「間新六郎光風」 部屋住み。間光延の次男。

養子に出されたが養父と折り合いが悪く江戸に出て浪人になっていたが、願い出て親子3人で義盟に加えられた。

行年23歳。 辞世は「思草茂れる野辺の旅枕仮寝の夢は結ばざりしを」。

吉良の動静を探りながらも、文武の道に怠らず、静かに書見をしている姿です。

 

「間瀬孫九郎正辰」 部屋住み。間瀬久太夫の長男で父と共に加わった。行年23歳。

若輩ながら、城内の大評定に加わらんとして、眉宇に決意をただよわせて登城しようとしている姿です。

 

「三村次郎左衛門包常」 酒奉行台所方、7石2人扶持。行年37歳。

身分が低く仲間外れにされていたので、憤慨して内蔵助に訴え、忠義を認められて義盟に加えられた。

討ち入りに際し、大槌を持って勇気凛々雪の中を、集合場所に着いたときの姿です。

 

「寺坂吉右衛門信行」 吉田忠左衛門の足軽で、3両2分2人扶持。

足軽では唯一の参加者。 内蔵助の命により、長矩夫人瑶泉院を始め、西国に報告のため討ち入り後に一行から立ち退いた。

使命を果たし江戸に帰って、大目付仙谷伯耆守に自訴したが無罪放免なった。

討ち入り時は38歳だったが、83歳まで生きた。

同志と今生の別れに、断腸の思いで名残を惜しみつつ西国へ向けて出発しようとする姿です。

 

「萱野三平重実」 中小姓近習13両3人扶持。 行年28歳。

刃傷事件の第一報を早駕籠で赤穂へもたらした。義盟に加わるが、家族から再仕官を勧められ、板ばさみになり自害した。

内蔵助は三平が存命ならば当然加わっていたと、その忠節を賞めている。

したがって、萱野三平は義士木像にはあるが、四十七士にはカウントされていません

『仮名手本忠臣蔵』の早野勘平は萱野三平がモデルです。

血盟の同志と共に、討ち入ったこととして、尽忠亡霊の姿を現したものです。

 

またダジャレ川柳が浮かびました・・・

   『 ギシギシと 歯ぎしり噛んで 仇を討つ 』

 

師匠の川柳は・・・

『 義を通し 赤穂に凛と 花が咲く 』・・・となりました。さすが師匠は下手なダジャレは使いません。

 

以上、長々と義士木像について書きましたが、一人ひとりの身分や年齢、エピソードを

読んでいるうちに、当時の四十七士の感情や、その家族、義盟に加わらなかった人たちの思いまで想像し、それに加えて、これまで見た映画やテレビの映像が浮かんで、胸が熱くなってきました。

 

次回はつぎの土曜日 「義士宝物殿」へつづく