山陽道 №24(西光寺・宮本武蔵生誕地)

 

前回に見つけた宮本武蔵・伊織の像があるという「西光寺」へ向かいます。

 

宝殿駅から南へ800m、真っすぐ一本道です。

 

山門に「準檀林格地」の碑が建っています。

「檀林」は仏教における学問所のことで、「準」は格を表しているそうです。

開山は伊予の地頭、川越四郎兵衛信義という武将が出家して、遊向上人と称され西光寺を開かれたものであると、寺の説明に書かれています。

 

山門をくぐって境内に入ったが、どれが五輪之庭園かよく分からなかったので、話を聞こうと思っていたところ、近所のおばちゃんが「そこの呼び鈴押したらお寺の人が出てくるよ」と言うので、言われた通り呼び鈴を押すと、中から返事がありました。 

「五輪の庭のことでお話を伺いたいのですが」と言うと、玄関の戸が開いてご住職が出てこられました。

案内された庭は「宮本武蔵・伊織の像」の前に広がっていましたが、最初に見た時はこれがその庭とは思わなかったのです。

それほどシンプルな庭でした。

 

ご住職の説明によると、平成13年の善導忌記念事業として造成されたそうです。

庭園研究家の西桂先生の設計によるもので、枯山水庭園として「五輪之庭」と名付けられました。

 

播磨産の石材を用いて、九石を作庭の中心に置き、雲形のデザインで敷石と苔を象って、祥雲たなびく幽玄の世界を表現しているそうです。

 

宮本武蔵が著作した「五輪の書」は、剣術の奥義をまとめたもので、密教の五輪になぞらえて「地・水・火・風・空」の五巻に分かれています。

五輪之庭も、「地之石組」「水之石組」「火之石組」「風之石組」「空之石組」でそれぞれの特徴を表現しているとのことでした。

 

 

『 二刀流 筆に持ち替え 新境地 』

 

師匠の川柳は・・・

『 命ある 限り文武に 励む日々 』・・・でした。

 

境内の脇に立っている宮本武蔵と伊織の像に移ります。

 

何故ここに武蔵と息子の伊織の像があるのか、その訳は・・・この地が、武蔵・伊織の生誕地であることが分かって来たからです。

これまで、武蔵の生誕地は美作国で、駅名にまでなった智頭急行宮本武蔵駅から徒歩約10分のところだと言われてきました。

美作生誕説は、吉川英治の小説『宮本武蔵』に採用されたため広く知れわたってしまった。

ところが、『五輪書』に武蔵自身が「生国播磨の武士」と述べていて、武蔵の伝記『二天記』にも「播州に生る」と書かれてます。

また、伊織が建てた『小倉碑文』に、「播州の英産、赤松の末葉」と記されています。

 

中世の豪族、赤松氏はかつて足利義教から米田の土地を拝領した。その一族の一人は赤松姓を変え、岡本三河房祐次として米田を支配し、その子孫は代々岡本藤市郎を襲名し、江戸時代はこの地の大庄屋であったと言います。

 

ご住職の話によると、女優、「山本富士子」さんの実家「山本家」の墓があってお参りにこられるそうです。

 

「鐘桜」は天明4年(1784)に建立されています。

 

西光寺北側にある米田小学校の東側に「米田天神社」があります。

 

加古川市の泊神社の末社として、宮本武蔵の養子で小倉藩家老の宮本伊織が再建したとあります。

 

主祭神は、泊大明神御分霊・天照皇大神・国懸大神・少彦名命で、天神社というから菅原道真が祀られているのかと思いきや、天満宮ではありませんでした。

 

脇には天満宮のシンボルの臥牛も座っているのに、しっかり狛犬も拝殿を守っていました。

建立した宮本伊織も、地元の人達も長らく誤解していたようです。

なんと紛らわしいことか。

そういえば明石以来、天満宮に遭遇していなかったなあ・・・地元住民の気持ちも分からなくはありませんね。

 

 

何やら大きな碑があるので、読んでみるともとは古く米堕邑と云われ由緒ある現在の吾が米田の里吏に将来一大進展をすべく時の自治会長が・・・(中略)・・・農地開発と住宅化を進め、地域農家経済に大きく貢献されたことに感謝を捧げ広く顕彰する』という碑でした。

街道を歩いていると、これはこれで立派な事業ですが、歴史的な碑かと思って読むと騙されることがよくあります。

 

米田天神社の南隣に「さくら公園」があって、園内には宮本武蔵関係の色々な碑があります。

 

右の碑は、「田原・宮本家父祖の地」と書かれています。

左の碑は、「米堕邑の古名」で、米田村は、『風土記』に六継里(むつぎのさと)として登場します。

 

 

 

武蔵の遺言ともいうべき「独行道碑」が建っています。

 

 

「五輪司供養廟」です。

上部には、金色の五輪「地・水・火・風・空」の文字が見えます。

下部には、「成功の門」「不老不死大門」、反対側には「幸福の門」「安楽乃門」とあります。

 

宮本武蔵と伊織について事細かく説明が刻まれています。

 

平成2年日に完成した「宮本武蔵・伊織生誕地碑」です。

この碑は地元宝殿の名産青竜石を用いて作られ、幅・約6m、高さ・約3m、重さ・約100t、相当の大きさです。

題字は、宮本武蔵終焉の地となった、熊本藩最後の藩主「細川護久」の孫「細川護貞」氏によるものです。

護貞氏は元第79代内閣総理大臣「細川護熙」氏の父です。

 

 

生誕地碑建立を寄附した方々の名前が並んでいます。

 

『二刀流の両手ここから振り始め』の川柳句碑が建っています。

 

 

 

『 箸を持ち 悪戦苦闘 異邦人 』

 

師匠の川柳は・・・

『 大福を 当てに播磨で 吞む地酒 』・・・

甘いものをあてに吞むのもなかなか乙なものです。 武蔵は酒でも二刀流だったのかも?

 

武蔵直筆の碑です。

 

見かけは少し貧相ですが、「宮本武蔵伊織資料館」も建っていました。

どんな資料が納められているのか気になります。

 

さくら公園から米田天神社へ戻り、東へ移動します。

 

年季の入った米田村道路元標がありました。

 

この辺りは赤松家より出た庄屋の田原家の土地の一部でした。

田原家は代々米田に居住し、田原家貞の次男が武蔵で、宮本無二之助の養子になったという事なので、宮本武蔵と伊織の生誕地とされています。

 

1年間、「神戸周遊」で75回、「山陽道」で24回、当ブログをご覧いただき有難うございました。

では皆さん、どうぞ良いお年をお迎えください。

 

次回は来年の1月2日つぎの木曜日 「播磨国総社・初詣」へつづく