京都周遊№152 大原野(大原野神社・勝持寺<花の寺>・願徳寺)

 

 

正法寺から極楽橋を渡ると、大原野通に出る。

大原野通を北へ少し進み、すぐ先を東へ右折すると「春日乃茶屋」がある。

 

さすがに朝から山登りでくたびれたので、ここで少し休憩していくことにした。

 

ここの名物は“よもぎ団子”です。

 

甘いものが疲れた体を優しく癒してくれる。

 

 

春日乃茶屋の脇に「鯉沢の池」がある。

 

『左大臣藤原の冬嗣を祖父とした文徳天皇は、壮麗な社殿と共に鯉沢の池をも作った。

池は名泉「瀬和井」と水系を一つにして杜若や水連を咲かせ親しまれている』とある。

奈良の猿沢の池を模して造ったと言われている。

 

すぐ近くに、その「瀬和井」があった。

 

 

春日乃茶屋の前に大原野神社の石鳥居が建っている。

ここから石段を上って境内へ進む。

 

大原野神社(おおはらのじんじゃ)は、奈良の春日大社から勧請を受けたもので、「京春日(きょうかすが)」の別称がある。

祭神は、武甕槌命、経津主命、天児屋根命、比売神の4柱で、春日大社と同じになっている。

延暦3年(784)に桓武天皇がが長岡京へ遷都した際、桓武天皇の后の藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ)

が藤原氏の氏神である奈良春日社の分霊を勧請して、しばしば鷹狩を行っていた大原野に祀ったのに始まる。

 

 

 

春日大社と同じ神なので、狛犬も「鹿」になっている。

 

 

 

本殿は、一間社春日造の社殿が4棟並、形式は春日大社と同様になっている。

 

 

 

摂社の「若宮社」がある。

 

 

 

 

 

境内に奉納相撲が行われる土俵があった。

 

 

大木の根が祀られている。

 

「勝持寺子院跡の石塁と石垣」がある。

 

『勝持寺は、小塩山の東麓、標高130~170mに位置し、寺伝では役小角の開創といわれる山林寺院です。平安時代の仁寿年間(851~854)に仏陀上人が伽藍を復興したと伝えられています。室町時代には、足利尊氏の帰依などにより寺運は隆盛し、現在の勝持寺の周辺には多くの子院(本寺に付属する小寺院)が存在したといわれています。

 京都第2外環状道路の新設工事に先立って、平成22年(2010)から平成24年(2012)にかけて、勝持寺の旧境内にあった子院跡と推定される場所で発掘調査が実施されました。調査では、建物・井戸・石垣や石塁などが見つかり、当該地において鎌倉時代から室町時代の複数の子院跡の存在が確認されました。この奥に石塁の一部を移築して保存しております。 京都市』とある。

 

「勝持寺子院跡の石塁」

 

『この石塁は、15世紀後半(室町時代)に勝持寺境内の子院の区画施設として作られた石積みの塀(石築地)です。発掘調査により発見されたのは、現在地から南へ約60mの地点です。東西方向の石塁は27m以上の長さで存在したことが確認され、そのうち最も特徴を表している8.5m分をこの場所に移築復元しました。高さは80㎝、基底部の幅も約80㎝です。本来の高さは、上部か崩れているために不明ですが、形状からみてそれほど高くはならないと思われます。使用されている石の大きさは20~30㎝のものが多く、内側には拳大の礫が詰められています。石材は、砂岩・チャート・脈石英など周辺で採取されたものです。このような石塁は、現在の寺院では見られませんが、14世紀初頭に成立した絵巻物『法然上人絵伝』や『春日権現験記』などに描かれた「石築地」と見られ、当時の寺社ではこのような区画施設が用いられたと考えられます。当時の寺院の様子や石積みの技術を知るうえで貴重なものです。

なお、石塁の西方で見つかった石垣は部分的ですが、道路の設計を変更することによって、現地に埋め戻され、保存されています。京都市』

とも書かれている。

 

大原野神社から北へ10分ほど歩くと「勝持寺」がある。

 

 

 

坂道や石段を上って行くと勝持寺の南門が現れた。

 

書院で拝観料400円を支払い境内に入ると、右手にまず本堂の「阿弥陀堂」が目に入る。

 

撫仏といわれる「賓頭盧尊者」が、「病気があれば同じところを撫でなさい」と待ち受けている。

私はやっぱり頭でしょうか・・・

 

庭に下りて行くと、まず目に入るのは「西行桜」である。

 

鳥羽上皇に仕えていた北面の武士佐藤兵衛義清が、保元6年(1140)当寺に於いて出家し、西行と名を改めして庵を結び、一株の桜を植えて吟愛していた。

世人はその桜を「西行桜」と称し、寺を「花の寺」と呼ぶようになった。

 

桜が咲くとさぞかし綺麗だろうなと想像する。

 

 

鐘楼を左に見て石段を上がると不動堂がある。

 

 

弘法大師が、眼病になやむ人たちのため、不動明王に病魔退散を祈願されたところ、霊験あらたかだったので、石不動明王を刻んで岩窟中に安置されたと伝わる。

以来、諸病平癒の不動様として信仰されている。

 

 

堂内には愛染明王が安置されている。

 

「不動明王はお堂の奥の岩の中に安置されている」と書いているので、堂内を覗いてみるとたしかに奥の岩の中にそのお姿が見えるが、ガラスに手前の風景や自分の姿が写り込み鮮明には見えない。

 

お堂の後ろに廻ってみると、岩の穴の中に「石不動尊」が鎮座していた。

岩穴が先で、お堂は後でできたんでしょうね。

 

 

不動堂から阿弥陀堂に下りて居並ぶ仏様に手を合わす。

 

お堂の横に、昔の消火ポンプと駕籠が展示されていた。

 

 

阿弥陀堂の隣が宝物館の瑠璃光殿になる。

 

 

堂中には薬師如来像・金剛力士像・日光菩薩像・月光菩薩像・十二神将像・西行法師像といった重文がずらり。

 

堂内の撮影は禁止で、しかもパンフレットにも写真が掲載されていない。

なんとかお伝えしたいので、写真を拝借させてもらいます

 

 

 

 

勝持寺の隣にある「願徳寺」へ回る。

 

願徳寺(がんとくじ)は、天台宗の寺院で、山号を仏華林山(ぶっかりんざん)と称する。

本尊は、国宝の如意輪観音の半跏像である。

寺伝によると、持統天皇が夢で啓示を受け、薬師如来を本尊として現在の向日市に創建されたが一時衰退する。

その後、平教盛の子、忠快(ちゅうかい)が中興したと伝えられる。

応仁の乱で焼失し衰退したが、昭和37年(1962)に本尊の観音像などが勝持寺に移された。

昭和48年になって、本堂と庫裏を勝持寺に隣接する現在地に移転、更に平成8年には本尊などが願徳寺に戻され、34年の年月をかけてようやく再興が完了したという比較的新しい寺である。

 

 

さすがに仏像の「如意輪観世音菩薩半跏像」が国宝、「薬師瑠璃光如来」が重文とあって撮影禁止。

モノクロですがパンフレットの写真をご覧ください。

 

 

願徳寺の拝観をもって今日の予定を終了し、帰途に就く。

 

コースのゴール地点「南春日町バス停」を目指す。

途中で勝持寺の仁王門が現れた。

この仁王門から勝持寺に参詣するのが本来のルートであるが、大原野神社を回ったのでこの仁王門の先から勝持寺に入ったことになる。、

 

「仁王門」は、応仁の兵火を免れた仁寿の旧構を残す勝持寺最古の建造物になっている。

 

 

勝持寺の寺碑もこちらにあった。

 

南春日町のバス停までは20分の道のり。

途中で樫本神社に立ち寄る。

 

樫本神社は大原野神社の境外摂社で、仁徳天皇を祀っている。

 

京阪京都交通の南春日町バス停に着いたが、時刻表を見ると阪急桂行が16時15分、ただ今の時刻

14時46分、これから1時間30分待ちという・・・

この暑さの中、こんな何にもないところで1時間30分も待つのは地獄です。

地図を見ると600mほど先になにやらバス停が複数ある。

ちょうど通りかかった地元の人に聞くと、阪急バスもそこまで来ているとのこと。

さらに耳寄りな情報は、バス停の近くに喫茶店があると言うではないか。

こうなったら、たったの600m、阪急バスを頼みに下まで歩こう。

そして時間待ちだったら、教えてもらった喫茶店で時間待ちをすれば良いではないか・・・

 

喜び勇んで下へと向かった。

途中で「大原神社鳥居の跡」という石碑が建っていた。

 

お目当ての喫茶店はすぐに現れた。

喫茶「か寿が」という店です。

 

中に入ってバスの時刻を聞くと、阪急バスの桂駅行が15時24分だという。

待ち時間は30分、安心してアイスコーヒーをお願いした。

 

大原野小学校前バス停に着くとすぐに、15時24分の桂駅行き阪急バスがやって来た。

ここまで歩いて大正解でした。

なんか路線バスの旅のようです。

 

 

無事、阪急桂駅西口に到着・・・

 

次回はつぎの水曜日 「善峯寺」へつづく