京都周遊№65 <新選組の足跡を辿る 1/2> 旧前川邸・八木邸・壬生寺
元祇園梛神社から南へすぐに京福電鉄嵐山本線の踏切を渡る。
踏切の60m先に「誠」の旗が掲げられた旧前川邸がある。
前川家は掛屋、糸割符仲間等を商う商家であるが、元は中祖に越前の国主・朝倉左衛門督義景を持ち、天正元年(1573)、織田信長によって落城の折、近江国に逃れ、宝暦4年(1754)京に移り住み、のちに姓を前川と改めたという、元はれっきとした武家である。
当時、前川家は、御所や所司代、奉行所の公金を取り扱い公職を兼ねていたことから、文久3年(1863)から2年間、新選組の宿舎にあてられた。
旧前川家から坊城通に戻るとすぐ西側に八木邸がある。
八木家は元々但馬の国郡朝倉の庄に祖を発し、鎌倉時代初期に、遠祖より八木安高によりて起ったという。
越前朝倉を経て室町時代に、京・洛西壬生村に居を構え、江戸時代には十家ほどの郷士と共に、村の経営や壬生狂言に携わり、代々村の行司役を勤めていたことから、京都守護職や所司代と係わりがあった。
八木邸の前はなぜか観光客であふれていた。
幕末の文久3年(1863)、将軍家茂の上洛にあたって警護の為に上洛した浪士達が壬生村を宿所としていた。
浪士達は清川八郎の策謀で間もなく江戸に呼び戻されることになったが、八木家を宿所としていた芹澤鴨をはじめ、近藤勇、土方歳三といった13名の浪士は江戸に帰らず京に残り、文久3年3月16日八木家に、松平肥後守御領新選組宿という表札を掲げ、新選組が誕生した。
見学料は1,000円だが、屯所餅と抹茶のセットがついている。
庭には隊士達が稽古のあと腰を下ろしていたという「隊士腰掛の石」があった。
なんか座り心地が悪そうな石です。
大勢の観光客にまじって中に入る。
客室から裏の廊下に回って、隣の部屋に入る鴨居に刀傷が残っている。
六畳の間の入り口に文机が置かれていて、沖田総司らに襲われた芹沢鴨は、この文机に躓いて転倒し、それが命取りになったと言われている。
文久3年9月18日どしゃ降りの深夜、芹澤鴨、平山五郎ら4人がここで暗殺され、近藤勇が新選組の主導権を握った。
子母澤寛の小説『新選組始末記』の一節をご覧ください。
文机は当時置かれていた場所そのままだという。
いつだったか忘れたが、八木家ご当主の方がテレビ番組で、子供の頃この机で勉強したとか言われていたのを思い出し、歴史を身近に感る。
八木邸のガイドの解説を聞いたあと、表の御菓子司「京都鶴屋」の「鶴寿庵」で“屯所餅”と“抹茶”をいただいた。
屯所餅は、当地で栽培されていた京野菜の刻んだ壬生菜が入っていて、丹波大納言小豆の粒あんを包んだ、歯ごたえのある美味しい餅でした。
八木邸から南へ50m、すぐ近くの右手西側、新徳禅寺の前に壬生寺(みぶでら)がある。
表門は、寛政11年(1799)の再建で、壬生寺の正門になる。
門の前にある寺号標柱はアルミニウム製である。
壬生寺は律宗の大本山で、本尊は地蔵菩薩、開基は三井寺の僧快賢である。
融通念仏の円覚上人が創始したとされる「台念仏狂言」を伝える寺として、また新選組ゆかりの寺としても知られる。
新選組の本拠が壬生村の八木家に置かれたが、武芸の鍛練場がないので壬生寺の境内が使われたという。
なにやら境内にはいろんなものがありそうでワクワクしてくる。
表門をくぐって境内に入ると、まずは右手に「一夜天神」が祀られている。
菅原道真が流罪になった時に、この壬生の地を訪れ 一夜をあかしたという故事がある。
つづいて「阿弥陀堂」がある。
入口に「新選組隊士墓所・壬生塚」と書かれた立札に導かれて中に入った。
堂内の右手が阿弥陀堂で、奥に阿弥陀如来三尊像が祀られていた。
300円払って地階に下りると、壬生寺歴史資料室になっていて、寺宝や新選組の関連資料が展示されている。
左が壬生塚で「これより先は1人¥100円」をお入れください」と書かれているので100円を投入し奥へ進んだ。
左から右へ眼をスパーんすると墓石や宝篋印塔、碑文がづらりと並んでいる。
左側に壬生塚案内図があったので見ると、①から⑬まで塚名とその位置が記されていたので、これに従って一周した。
➊は方丈池に浮かぶ「竜神像」である。
➋ 壬生官務家墓
壬生家(小槻姓)は朝廷に仕えた昇殿を許されない地下(じげ)の官人で、南北朝時代から壬生家を称し、家職は算術博士で大夫史を世襲し、官務家(かんむけ)と呼ばれた。
➌ 『あゝ新選組』の歌碑
三橋美智也のヒット曲で、右側のコイン投入口に100円を入れると歌が流れてくる。
代わりにYou Tubeをリンクしますので見てください。 ☟
昭和40年から41年にかけて、司馬遼太郎原作「新選組血風録」がテレ朝のドラマになった。
主役は近藤勇でなく土方歳三だった。
私にとっては今でも「土方歳三」といえば「栗塚旭」である。
近藤勇が舟橋元、沖田総司が島田順司、斉藤一が左右田一平、原田左之助が徳大寺伸だった。
遠藤辰雄扮する芹沢鴨も憎たらしかったが、栗塚旭の土方は当たり役というか他を抜きんでいた。
この年の昭和41年に、やはり司馬遼太郎原作の「燃えよ剣」が松竹で映画化されたが、この時の土方がテレビドラマ同様、栗塚旭だったので、これが「土方歳三」といえば「栗塚旭」を決定づけたのかも知れない。
その後、同じテレ朝で、平成10年に近藤勇が主人公に代わり、渡哲也の近藤勇、村上弘明の土方歳三で放送されたが、いまいちしっくりこなかった。
松山千春が芹沢鴨という、ミスキャストもいいとこだと思った記憶がある。
最近では、平成23年にNHKBS時代劇で放送され、見るには見たが、ただ惰性で見ていただけである。
このときの土方は永井大、近藤は宅間孝行、沖田が辻本祐樹、芹沢が豊原功補だった。
平成16年に放送された大河ドラマの「新選組!」では香取慎吾の近藤はお笑い種だったが、ジャニーズを使うのは、若い人たちに歴史に興味を持ってもらうという点では結構なことだと思う。
土方を演じた山本耕史は、顔が土方本人に似ていたこともあって、まったく違和感なく、演技も素晴らしくて1年間楽しませてもらった。
それでも、私にとって「土方歳三」といえば「栗塚旭」は揺るがない。
ここで素朴な疑問が発生する。
あゝ新撰組では、字が『選』でなく『撰』になっている。
小説でもドラマでも字は『選』である。
近藤勇自身が両方使っていたらしいので、どちらが正しいとは言えないが、我々が目にする字は圧倒的に『選』の方が多い。
下母澤寛の小説『新選組始末記』の冒頭に『新選組の「選」の字が、選を用うべきかについては、私はどちらでもいいと解釈した・・・』といった下記のようなくだりがある。
➍ 新選組で足止めを喰ったが、次は壬生寺歴代住職供養塔です。
❺ 人丸塚は万葉集で知られる歌人・柿本人麻呂の灰塚と伝わる。
「人麻呂」が「人丸」となり、「火止まる」に通じることから、火除けのご利益があるという。
そういえば兵庫県明石市の子午線天文台の北隣に「柿本神社」というのがあるが、そこも地元では「人丸神社」の通称の方が通りがよく、「人麿」を「人生まる」と解てし安産の神に、「火止まる」と解して火除けの神としての信仰している。
しゃれで意味を勝手に作ってしまうとは、「鰯の頭も信心から」というが、信仰というのはいい加減なものが多い。
❻ 芹沢鴨と平山五郎の墓
八木邸で暗殺された二人がこうして、ちゃんと弔われているのがいい。
➐ 隊士七名の合祀墓
隊士7名とは、阿比原栄三郎・田中伊織・野口健司・奥沢栄助・安藤早太郎・新田革左衛門
・葛山武八郎である。
➑ 河合耆三郎の墓 ➒ 近藤勇遺髪塔
河合耆三郎(かわいきさぶろう)は商人の息子だったが、新選組に入隊し、勘定方として主に隊費の経理面で活躍し、池田屋事件では松原隊の一員として参戦している。
資金使い込みの疑いをかけられ、親元に足りなくなった資金を借り入れるために使いを出したが、切腹直後に金が届けられたという気の毒な話が、映画かドラマだったか忘れたが見た記憶がある。
切腹を聞いた親が大変怒り、新撰組へのあてつけに屯所前を葬列を組んで練り歩き、壬生寺に墓を建てた。
そう経緯があって河合耆三郎単独の立派な墓になっている訳です。
無くなった金というのが、近藤勇が島原の御幸太夫を請け出すのに金に使ったという話があるので、このように近藤勇遺髪塔の隣に墓があるのも、なんとも複雑な思いがする。
➒ 近藤勇遺髪塔 ➓ 近藤勇胸像
言わずと知れた新選組局長「近藤勇」で、写真とそっくりの出来になっている。
⓫ 新選組顕彰碑 ⓬ 新選組隊士慰霊塔
⓭ お百度石
異常が壬生塚案内図にあったものだが、外にも「誠桜」や「総検校・吉川湊一(よしかわそういち)墓塔」がある。
吉川湊一は全国の検校(けんぎょう)を統括する職検校にまで昇りつめた江戸時代の琵琶法師である。
墓は東京新宿の多聞院にあるが、壬生寺との係わりは分かりません。
以上が壬生塚で、再び朱い橋を渡って阿弥陀堂へ向かう左手に「壬生寺旧本堂の狛犬瓦」がガラスケースに展示されていた。
昭和37年に焼失した本堂の大屋根に掲げられていたもので、江戸時代の文化年間に制作されたものとある。
現在の本堂は昭和45年(1970)の再建である。
阿弥陀堂の西隣に弁天堂がある。
明治27年(1894)の再建で、本尊の秘佛・辧財天は、清水寺の延命院より移されたもので、子孫繁栄 ・金運上昇のご利益がある。
つづいて水掛地蔵が並ぶ。
堂内の石の地蔵さんに水をかけて祈ると、一つ願いが叶うという信仰がある。
水掛地蔵の前に大きなクスノキがそびえている。
「区民誇りの木」とある。
さらに進み、本堂北側の寺務所前に回ると、北門の手前に大念仏堂がある。
安政3年(1856)の再建で、狂言堂とも呼ばれ、二階部分で壬生狂言が演じられるという。
本舞台、橋掛かり以外に能舞台には見られない「飛び込み」や「獣台」などの特異な構造をもつ建物である。
本堂の南側には千体仏塔がある。
パゴダのような塔で、石仏を1000体円錐形に安置している。
千体仏塔の南には嘉永4年(1851)の再建になる鐘楼が建っていて、ここの梵鐘は嘉永元年(1848)に鋳造されたものという。
鐘楼の東側の中院は、壬生寺に唯一残こる塔頭で、御堂は文政12年(1829)の再建になる。本尊の十一面観音菩薩は、福健康長寿に霊験あらたかな観音である。
新選組の足跡にどっぷりつかったが、外にもまだまだあるのでそちらに向かう。
次回はつぎの土曜日 「光縁寺・島原」へつづく