中山道№111 与坂~中津川駅
「二八そばと五平餅」
地下道で国道をくぐり、与坂を急登する。
前を横浜から来たという同年輩の旅人が歩いていた。
しばらく一緒に歩いたが私の歩速と合わなかったので「お先に行ってください」という。
それではと先へ進む。
振り返ると横浜さん立ちどまっていた。
あごが出るほど急な坂道を進むと遠くに落合ダム湖が望める。
背後には右に高土幾山(1047m)、左に高峰山(945m)の稜線が広がり、奥には伊勢山(1373m)、夕森山(1521m)が聳える。
伊勢山は木曽谷を歩いている時に南側に見えていた山だが、ちょうど反対側まで歩いて来たことになり、ずいぶん歩いて来たなあという感慨が湧いて来た。
高原の様な明るい道を進むと「与坂立場跡」があり、「弘法大師三十六番札所碑」が地蔵堂の前に建っていた。
この辺りから街道は下り坂になり、恵那山を見ながら下って行くと三五沢に架かる三五沢橋を渡る。
丘の上に「子野の一里塚跡」があった。
日本橋から数えて84里目である。
槇坂を上ると「覚明神社」がある。
社に御嶽山秘法護摩供(火天沐火法)の説明が写真入りで貼られていた。
再び下り坂になり、子野川に架かる子野橋を渡ると大きな枝垂桜が道にまで覆いかぶさっていた。
その下に子野の地蔵堂石仏群が並ぶ。
庚申塚や地蔵、観音像などが数多く祀られていて、昔このあたりに地蔵堂があったと言われているが、所在は明らかではない。
子野の地蔵堂を下り、地蔵堂川に架かる地蔵堂橋を渡ると「第一用水上金水力発電所」がある。
中津川市のクリーンな電力を確保するため水路の落差を利用した小水力発電所である。
ここまで、何度もアップダウンを繰り返す街道道はなかなか厄介で、想像以上に疲れる。
すぐ先で国道19号線を横断する地下道があった。
地下道の壁に種田山頭火の句が掛けられていた。
上に出ると中山道案内図の傍らに可愛らしい道祖神が鎮座する。
秋葉常夜燈、上金メダカの池の先に「尾州白木改番所跡」があった。
馬籠にもあった木曽の材木を監視する尾張藩の番所である。
旭ケ丘公園の手前にたこやき屋があった。
昼前になっていたので一皿買って公園の東屋で昼食前の小腹押さえとした。
園内に法華経の経文を一字づつ約3cmの丸い小石360個に墨で書いたものが納められているという「経王書写搭」があった。
中山道を旅する人の安全を祈願したものらしい。
すぐ先に芭蕉句碑「山路来て何や羅遊加し寿み連草」がある。
俗称「すみれ塚」というらしい。
傍らに馬頭観音・庚申塔が立ち、ここから茶屋坂を下って行く。
途中に、中津川の初代町長を務めた間元矩の顕彰碑がある。
撰文を認めたのは暮田正香の名で「夜明け前」にも登場する熱田神宮の大宮司・角田忠行とある。
さらに茶屋坂を下って行くと復元された高札場があった。
脇には成田不動尊の石段の下に、常夜燈、庚申塔、十三夜搭が三基並んでいた。
新町交差点から先が中津川宿で、右手奥がJR中津川駅になる。
昼時になったので食堂を探した。
駅手前の更科というそば屋に入った。
地元の玄蕎麦を丸ごと石臼で挽いた「全粒粉」を2種類のふるいでふるうことで、そば粉独特の香り、食感、ぬめり、ざらつき、甘さを活かした二・八そばが売りになっている。
「五平餅そばセット」についていた五平餅は団子の形をしてた。
飛騨、木曽の五平餅は楕円形が一般的であるが、地域によって、みたらし団子のようなものや、団子状のものがあるらしい。
次回は明後日 「中津川宿」へつづく