中山道№63 八幡バス停~望月宿

 

 

           

 

 

 


「思いがけずの蟠龍窟」

 

八幡宿は所々に背丈の低い古い家並みが点在する宿場町であるが、まったく人通りがなかった。

八幡バス停の先でしばらく上町の旧道に入ると大きな馬頭観世音が、つづいて小さな路傍の石仏を見て心が和む。

 
 

 

 

 
 

 

 

八幡宿上方口で再び県道438号線に戻り、その先の八幡西交差点で今度は国道142号線と合流する。

 
 

 

 

500m先で布施川に架かる百沢橋に出た。

ここから右手に浅間山と黒斑山が見える。

浅間山にかかっていた雲はすっかり無くなっていた。

 

 

 


広重はここで八幡宿の画を描いたと思われる。

布施川ではなく中沢川という説があるらしいが 、川の規模から考えても、浅間山の眺望から見ても私は布施川から描いた画だと思う。


 

 

百沢東から再び旧道に入り300mほど行くと火の見櫓の奥に「祝言道祖神」があった。

 
 

 

 

長野県安曇地方で発生した道祖神で、宮廷貴族の装いをした男女が酒を酌み交わす華麗な祝言像である。

 
 

 

 

布施温泉入口から牧布施道標分岐から旧道に入り雑草道を400mばかり進むと、望月宿への分岐点に馬鹿でかい村おこしとして建てられた「日本一の道祖神」が設置されていた。

 
 

 

 

  

 

 

 

望月東急ゴルフクラブの看板のところから右へ入って行くと金山坂という草深い農道になっていた。

 
 

 

 

マムマムに噛まれたら怖いので300mほどの草むらを駆け抜けた。

アスファルト道に出てやれやれ、肩で息をして呼吸を整える。

 
 

 

 

つぎは瓜生坂をだらだらと600mほど上って行くと瓜生坂の一里塚に到着した。

 

 

 

 

 

 

一里塚は南側が残っていて、北側は斜面の半分が道路で削られていた、

 

 

 

 

 

 

さらに上ると中山道瓜生坂の碑と念仏百万遍搭が並んでいた。

 

 

 


広重は望月宿の画として満月の瓜生坂を、そして浅間山を白く描いている。

瓜生峠を行く馬や旅人の横に連なる松並木はこの先の笠取峠を借景したものらしい。


 

 

瓜生峠から下りに変り、旧道は一旦舗装道路から外れて土道を下る。

 
 

 

 

草刈をしているおじいさんがいたので声を掛けたがまったく話が通じなかった、というか会話が成立しないのである。

作業中の手を止めて悪かったのかなあ。

 

 

 

 

 

 

瓜生坂を出るとアスファルト道になった、長坂旧道口から今度は足がつんのめるような急な下り坂に変った。

自然に駈け下りるように歩いた方が楽やけど、きっと後でこたえるてくるんやろなあ。

 
 

 

 

坂の途中に石仏石塔群が石垣の上に並べられていた。

 
 

 

 

 

 


坂を下り、鹿曲川かくまがわを長坂橋で渡ればもう望月宿である。

説明板によると『中山道は、ここから望月新町のあった鹿曲川右岸を下流に向かって進み、西に折れて中之橋を渡り、大通りの望月本町に至っていたが、寛保2年の大洪水で新町が道ごと流されてしまい、その後、道とともに新町が移転された。そして中山道はこの長坂橋を渡り、桝形をとおって新町が移転された東町に上り、北側にやや進行して望月本町をとおる旧来の道とつなげられた。したがって、ここは初期中山道と変更後の中山道の分岐の場所である』とある。

 

 

 


長坂橋の左側に「弁才天」の石碑があった。

これは何だろうと思って見上げていたら、後ろから「この先の絶壁に弁天窟があんのやけど、橋の手前で通行止やで」と声がかかった。

振り向くと自転車を押しながら歯の抜けた爺さんが笑っていた。

「ここから遠いんですか」と聞くと、「200mぐらいかなあ、望月橋の反対側からなら良く見えるよ」という。

行こうかどうか迷ったが思い切って行ってみることにした。

 

 

 


望月橋東詰から入ると西宮神社がありその奥に弁才天の祠があるが橋が通行止めになっていて渡れない。

さっきの爺さんが言ってたように望月橋を渡って対岸から見ることにした。

鹿曲川の向こうに断崖絶壁を穿って弁才天の社が建っていた。

屋根の上半分が岩の出っ張りに合わせて斜めになっている。

屋根の上の方に字が彫られていた。

単眼鏡で見ると「蟠龍窟」とある。

回り道して良かった、いいものを見せてもらった。

 

 

 

 

 

 

満足して、再び長坂橋まで戻り橋を渡ると、出桁造りの民家でしょうか商家でしょうか、軒下に「モ」の字と模様の彫刻が施されていたが、これは屋号でしょうか、それとも望月宿の「モ」でしょうか。

 

 

 


望月宿へ至る道の途中で馬頭観音の石像を見ながら坂を上り切ると、旅館島田屋があった。

江戸時代からつづく宿である。

 

 

 


すぐ先で街道は右折し北へ向かって宿場街へ入って行く。

 

 

 

 

 

 

大丸屋、清水屋、松井屋、熊谷商店、大和屋呉服店と古い家並みがつつき、佐久市消防団の前で北西へ曲る。


 

 

 

 

 

 


 
 

 

 

 
 

 

 

ふたたび左右に古い家並みが、井出野屋旅館、山城屋嘉左衛門、ますや、さなやとつづく。

 
 

 

 

 
 

 

 

望月歴史民俗資料館へ入ると、玄関前の左側に「道祖神」、「釣瓶沢の水割場石」と「木樋」が、右側に「駒繋ぎ石」が展示されていた。

 
 

 

 

 
 

  

 

 

 

宿場はさらに大森本陣跡、山城屋、鷹野脇本陣跡、叶屋、そして極めつけは望月宿最古の建物で重要文化財に指定されている大和屋・真山家住宅とつづく。

 
 

 

 

 
 

 

 

 

 

 

 

古民家の軒下に「モ」の印が入った下駄が吊り下げられていた。

やっぱりこの「モ」は望月宿のモだと確信した。

望月宿の古民家・古商家のオンパレードである。


 

 

次回は明後日 「大伴神社」へつづく