中山道№26 浅間山古墳~神流川

 

 

 


「神流川で足止め喰った滝川一益」
 

 

浅間山古墳の向かいの民家のような森谷工務店のブロック塀がへこんでいてその中に「中仙道」の碑が建っていた。

これほどまでしてこの場所に建てなければならない碑だろうか??・・・。

 

 

 


すぐ先の右手に、今度は民家の敷地のコーナーであるがブロック塀の切れ目に「涙橋」の由来碑があった。

『街道筋の住民に傳馬の苦役を課したので、農繁のさ中に又酷寒風雪の日にも傳馬の人々此の橋に憩い家族をを偲び身のはかなさを嘆じてか泪しきりなり』とある。

傍らに石塔が三基佇んでいた。

手前には、この先の御陣馬川に架けられていた橋の一部と思われる石が二基並んでいた。

 
 

 

 

 

 

 


すぐ先のセブンイレブンでトイレを借り100円のセブンカフェで冷えた身体を温めた。

街道歩きにおけるコンビニの有難味は計り知れないものがある。

 

 

 

 

コンビニの前の神保原陸橋()交差点から200m行った所に御陣馬川に架かる「楠森橋」がある。

この橋がさっきの「涙橋」でしょうか。

  

 

 

 


舗道に集められた雪を除け、民家の中に鎮座する屋敷神を見ながら歩いていると、「⇒石神社」の立看板があった。

  

 

 

 


路地の奥に目をやると500mぐらい先に神社らしきものが見える。

単眼鏡で見てみると石(せき)神社だった。
私のカメラで最大ズームアップした大きさと同じぐらいに見える。

 

 

 


すぐ先の関東ゴム製作所の前に庚申塔が建っている。

綺麗な自然石で造られていた。

 

 

 

 

 

神保原1丁目交差点を右折し、50m先の神保原()交差点で国道17号線を跨ぎ、県道392号線へ入る。

 

 

 


200m先左手の空き地のような所に石塔が並んでいた。

奥には祠があって、中にはお顔がのっぺらぼうの様になってしまった「開運薬師如来」が鎮座していた。

 
 

 

 

 
 

 

 

 


つづいて造園植木の天田本家にならぶ七福神が可愛らしい。

大黒様の笑い顔を見ているとこちらまで笑い顔になってしまう。

 

 

 

 

 

1kmほど行くと「陽雲寺」がある。

 

 

 


街道から奥へ入って行くと朽ちかけた門の前の石碑には「武田信玄室三條夫人墓」

「新田義貞臣畑時能墓」と刻まれている。

陽雲寺は鎌倉時代の元久2年(1205)に創建されたと伝わる。

新田義貞が鎌倉幕府打倒の祈願をして不動堂を建立したという歴史や、武田家滅亡後、武田信玄の甥に当たる川窪信俊が徳川家康に仕え、養母である信玄の妻三條夫人を伴って金窪城に入封し、三條夫人は陽雲寺に住み亡くなったという歴史がある。

 

 

 


先へ進むと、賀美公民館前に中山道の案内図、賀美小学校の手前には立派な「国殉・慰霊之碑」が建っていた。

 

 

 


この慰霊碑は厚生大臣橋本龍伍篆額(てんがく)とある。

橋本龍伍

 

 

 

(はしもとりょうご)は第82代内閣総理大臣橋本龍太郎と第1315代高知県知事橋本大二郎の父である。
 

 

 

 


勅使河原(北)交差点を過ぎた所に庚申塔が四基並んでいた。

 
 

 

 

神流川
かんながわ
橋(南)交差点の手前にある地蔵堂の傍らに「勝場一里塚跡」碑が建っている。

 

 

 

 

 

 


神流川は利根川水系の支流烏川からさらに分れた支流であるが、中々の大河で昔から荒れ川で出水の度に川瀬道筋を変えて、旅人や伝馬人足の悩みの種であったとある。

文化12年(1815)本庄宿の戸谷半兵衛が川の両岸に燈籠を建立し、夜になると火を点し夜道を往来する旅人の目印として見透灯籠と呼ばれた。

 

 

 


英泉の浮世絵『支蘓路ノ驛 本庄宿 神流川渡場』にも神流川が描かれている。

背景の山は上毛三山で、右から赤城・榛名・妙義山である。

土橋は本庄の豪商初代戸谷半兵衛が架けさせたもので、出水で橋が流された場合に備え、別に渡し船も用意された。3代目戸谷半兵衛が寄進した常夜燈も描かれている。

 


橋の上から赤城山が見えるはずで期待したが曇っていて見えなかった。

左にJR高崎線の鉄橋を見ながら600mあろうかという神流川橋を渡りきると「神流川古戦場跡」がある。

 
 

 

 

 

 

 


天正10年(1582619日、織田信長が本能寺に倒れた直後、関東管領滝川一益たきがわかずますは信長の仇を討たんと京を目指したが、この時北条氏が好機到来とばかり56千の大軍を神流川流域に進めた。

滝川一益は勇猛の西上州軍18千を率いて死闘を展開し、滝川軍は戦死3,760という戦史に稀なる大激戦となった。

滝川一益は織田四天王・織田五大将の一人であるから当然信長の仇討ちをしたいと思ったが、上州は京都までは遠い。

厩橋に戻り戦死者の供養を行ったあと、箕輪城で酒宴を開き上州勢に別れを告げ、碓氷峠を越え尾張に向かった。

ところが清州会議には間に合わず、羽柴秀吉にしてやられた滝川一益の織田家における地位は急落したのである。

この神流川の戦いがなければ清州会議の結末は違ったものになっていたかも知れない。

一益はその後賤ヶ岳の戦いで柴田勝家に与して北伊勢で戦ったが勝家が破れたため、一益も降伏し所領を全て没収され越前で蟄居した。

古戦場に立つと、人の運命なんてちょっとした事で大きく変わってしまうなあとしみじみ思う。

 

 

 


手前に「ようこそ高崎へ」のウエルカム看板が建てられていた。

いよいよここから先は群馬県である。

 

 

 

 

次回は明後日 「勅使河原の渡し場」へつづく