中山道№17 箕田追分~吹上駅
「鴻巣箕田は源氏の里」
左が中山道で、右が行田や館林へ通じる分岐点である。
ここに追分地蔵堂と庚申塔、そして横に「箕田源氏ゆかりの地」の立派な屋根つき説明板が建っていた。
鴻巣市箕田は9世紀後半の平安時代に、源仕・源宛・源綱の三代が本拠地とした土地で箕田源氏発祥地とある。
渡辺綱とも呼ばれる源綱は、摂津源氏の源頼光に仕え、頼光四天王の筆頭として剛勇で知られた。
大江山の酒呑童子退治や、京都の一条戻橋の上で鬼の腕を源氏の名刀「鬚切の太刀」で切り落としたという話は有名である。
ただ今の時刻は13時43分、吹上駅までの距離は3.5km、微妙な時刻になってきた。
というのも、14時45分発の大宮行きに乗らないと、東京発17時3分発のひかり481号には間に合わないという事情があるので、吹上まで歩かず追分から300m東にある北鴻巣駅から乗った方が良いかを判断するポイントになっていたのである。
もっとも、“のぞみ”に乗れば十分余裕はあるが、私の場合はジパング倶楽部で乗車券を買っているので“ひかり”を利用するのが割引の条件になっているのである。
残された時間はあと1時間、普通に歩けば間に合うが、写真撮影タイムや寄り道もあることから、1時間の走行距離を3kmに設定しているので10分足らない。
途中の史跡を見落としたらもう引き返す時間は残されていないので、急ぎ足にギアーを切り替えながらも、注意深く歩かなければならない。
最悪の場合は神戸への帰宅時刻が深夜になることを覚悟して吹上駅まで行くことにした。
追分からしばらく行くと苗木のバス停前に庚申塔があるが、ブロックの祠で風情がない。
フラワー号の中井バス停前に、何を記念しているのか分からない「記念宮」と掲額された鳥居付のお宮さんがあった。
どう見ても民家の敷地内である。
田園風景の広かる街道を歩いていると、「ここは中山道前砂村」「池田英泉の鴻巣・吹上富士はこのあたりで描かれた」と刻まれた「前砂村碑」が建っていた。
英泉の描いた『岐岨街道 鴻巣 吹上冨士遠望』は、鴻巣宿近辺ではなく人家が途絶えた寂しい道で、さらに先の間の宿がある吹上辺りの風景である。
旅路の目印となる榎が疎らに植えられた昿原の縄手を旅の商人や虚無僧が往き交い、背景には雪を頂く富士の山が雄大な姿を現している。
今では街道からは富士山は見えないが、荒川を渡る車内からだと富士山が望める。
すぐ先の道路脇に「前砂一里塚跡」が建っていたが、説明板の字は剥げ落ちて読めないし、碑も
かすかにそれと確認できる状態だった。
日本橋より14里目、56km歩いて来たことになる。
鴻巣市の街道に見られる碑はすべてきれいな御影石だったが、なぜかここだけ鴻巣市内なのに古ぼけている。
500mほど行くと前砂交差点で道は二手に分かれ、右へ進むと吹き上げ駅へと続く。
この分岐点の植え込みの中に中山道のコースを刻んだ御影石の道標が建っている。
旧道に入るとJR高崎線が並行して走り、NTT東日本の赤い鉄塔が見えると吹上駅も近い。
第四中山道踏切を渡り眼病にご利益があるという「妙徳地蔵尊」にお参りし、筑波の町から吹上本町を足早に通り過ぎる。
野菜無人販売所に大根が8本、寂しそうに並んでいた。
吹上駅前交差点に到着したのが14時34分、なんとか45分発に間に合いそうである。
と思って駅の方へ向かっていたら、ガチャーンという音がしたので振り返ると、道の向こうで自動車の脇に自転車が横転していた。
車から降りてきたドライバーに自転車の男性が怒鳴り声を上げていた。
「気をつけろー!!バカヤローー!! $#*!&%・・・」あとは何を言っているのか良く聞き取れなかったが、そうとう怒っていた。
どうやら出会いがしらに当たりそうになり、自転車が避けようとして転んだらしい。
いつまでも見てられないので駅へ急いだ。
そこでまた揉め事に遭遇した。
食堂から出てきた客と、中に入ろうとしていた客がぶつかったと文句を言っていた人が、大きな声で駅前の交番にいたお巡りさんを呼んで、大げさにも「これは傷害罪だ」と言い出した。
私は電車の時間が迫っていたのでその場を去ったが、その後どうなったのでしょうか。
それにしても吹上の人は気が荒い。
吹上町で見たマンホール
本日はここまで (上尾宿~吹上間の宿) 歩行距離18.3km 日本橋から56.8km
次回は明後日 「吹上駅」から