№20 宇都宮釣り天井
今市までは途中に鉄道の駅がないのでなんとか今市まで行きたい。
そう思って早朝出立した。
道中の車窓から日の出を拝む。
宇都宮駅を降り追分に直行しようと思ったが、前回は日が暮れてしまい宇都宮城に行けなかったので、ちょっとだけ寄り道することにした。
宇都宮城は本丸の一部であった清明台や、富士見櫓・石垣と土塁・土塀および堀を外観復元し、改称して「宇都宮城址公園」となっている。
特に歌舞伎や講談などで有名になった「宇都宮釣り天井」事件は、幕府内の権力闘争が元になっている。
事件の内容をかいつまんで言うと、元和8年(1622)本多正純は、徳川秀忠が家康の七回忌に日光東照宮を参社した後、宇都宮城に宿泊するというので、城の不振や御成り御殿の造営をした。
ところが、秀忠の姉で奥平忠昌の祖母である加納御前から「宇都宮城の普請に不備あり」という
密訴があった。
秀忠は御台処所が病気と称して、宇都宮城に泊まる予定を急遽変更して江戸に帰った。
その後、秀忠は正純に、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには宇都宮城の寝所に釣天井を仕掛けて秀忠を圧死させようと画策したなど、11か条の罪状嫌疑を正純へ突きつけた。
正純は一つ一つ明快に答えたが、根来同心の処刑、鉄砲の無断購入、城修築で抜け穴を無断で作ったことに答えられなかった為、所領は召し上げとなったが、先代よりの忠勤に免じ出羽由利郡5万5000石を与えると命じた。
ところが謀反に覚えがない正純がその5万5000石を固辞したところ、逆に秀忠の逆鱗に触れ、本多家は改易となった。
加納御前は正純が宇都宮に栄転したのに伴って、格下の下総古河への転封を命じられた忠昌の祖母であり、しかも加納御前の娘は正信・正純親子の陰謀で改易させられた大久保忠隣(ただちか)の嫡子の正室であったということから、正純に対する意趣返しであったと言われる。
史実は秀忠と正純の話であるが、「釣り天井物語」になると家光と正純の話になり、大工とその恋人が絡んだ話に変わる。
長話になってしまいました。
宇都宮釣り天井事件を偲んでいたら、ずいぶん時間を喰ってしまったので急いで街道へ戻り、清住町通りの追分へ向かう。
大通りに本陣跡の標識があり、道を渡ると日光街道と奥州街道の追分標識で、ここから左折して清住町通りに入る。
旧道に入るとすぐに、壁に「株式会社上野」と書かれた本陣上野家らしき蔵造の旧家がある。
つづいて三峯神社の先に蒲生君平修学の寺とされる延命院がある。
君平はこの寺の住職良快から読み書きの手ほどきを受けたとある。
境内の地蔵堂には鎌倉時代の延命地蔵菩薩立像が安置されている。
清住町通りを進むと店先の看板に「食と空間の創造」と書かれたいかにも老舗という蔵造の商店があった。陶磁器などの工芸品を扱う「たまき」という店で、「売りつくし蔵払い」の張り紙と明治10年築という蔵造の建物がマッチしていた。
松原三丁目交差点をすぎると上戸祭(かみとまつり)の町になり、これまでの道とは違って街道の雰囲気が出て来た。
上戸祭公民館の前に薬師堂があり、この辺りから桜並木がつづくが、時期は晩秋で街道は紅葉に変わっていた。
分星芸術大学・宇都宮文星短期大学の前をすぎると、日本橋より28里目の上戸祭(かみとまつり)の一里塚がある。
一里塚は昭和59年に一部修復されたとある。
街道はまもなく釜川に架かる弁天橋を渡り、しばらく行くと光明寺がある。ここも日光参社の将軍休息所である。
この辺りから街道は両側が土手になり、桜や松、杉、竹といった木々が混在した並木がつづき、所々が紅葉になっていた。
途中の広場で新鮮野菜くだものの直売市が開かれていたので覗いてみた。
しるこのサービスがあったので一杯ご馳走になった。
朝が早かったので虫押さえにりんごをゲットした。
りんごを食べながら歩いていると、宇都宮動物園のプラカードを持ったマスコットらしきぬいぐるみが道端に立っていた。
動物園がこの近くにあるらしい。
「高谷林一里塚」へつづく