18 旅人を見守る常夜燈

 

今日は三雲駅からのスタートになる。

日帰りの場合は1日の行動時間を少しでも長く確保したいので朝一番に家を出ると、神戸三ノ宮534分発のJRに乗り草津線経由で三雲着が8時である。

したがって朝4時半起床となるので、朝の用足しができないまま電車に乗ることになる。

とりわけ今日は調子が悪い。

三雲駅は水洗でないので大変だった昔を思い出す。

朝から読者の皆さんごめんなさい。


気を取り直して出発するが、その前に現在の街道から外れた所にある天保義民碑と野洲川南岸の横田の常夜燈を見ておく必要がある。

というのも野洲川を渡るには橋がないので昔は渡し舟で渡ったが、その両岸に立派な常夜燈が立っているので両方の常夜燈を見ておかないと片手落ちとなる。

天保義民碑は天保13年に起きた農民一揆で、検地十万日延期を勝ち取ったというもの。

 
 

また駅まで戻ると、駅前には大変立派な明治天皇聖蹟碑が建っていた。

東海道中いたるところで明治天皇の碑がある。申し訳ないが少々食傷気味である。

行幸の場所が複数だと巡幸、皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃の場合は巡啓と言い、天皇が夫妻で出かければ行幸啓となる。

明治維新までは天皇は行幸などせず御所の中でじっとしていたが、王政復古後明治天皇は20年足らず間で全国相当数の土地を行幸した。

それまで庶民にとって一番偉い人は、天子様でも将軍様でもなく藩のお殿様だったと思うが、施政者が代わったということを知らしめる必要から、世の中を見て廻ったというより天皇の権威を示すために新政府が考えたのだろうと思う。

したがってこれまでただ漠然と聖蹟碑を見てきたが、これを建てる事によって行幸があったことを形で残し、天皇制を後世に伝えてゆくための一役を担ったのではないだろうか。

その結果全国に行幸にちなんだ地名が誕生した。

御幸道路・行幸道路・みゆき通り・御幸小学校・御幸丘や聖蹟桜ヶ丘など随所にある。

読み方は普通みゆきであるが、私の出身地の御幸通はごこうと読む。 

何度も言うが日本語は素晴らしい言語だがややこしい。

天皇が行幸中に一時乗り物を停めた所に建てた「明治天皇駐蹕之処碑(ちゅうひつのところひ)」というのも道中見かける。


横田橋の上から地元では横田川と呼ばれている野洲川の雄大な眺めを見ながら、川の両岸を走っている1号線が合流する朝国の交差点まで行く。

  
 

ここから400mほど1号線に沿って歩き、水口(みなくち)宿の看板が高々と聳えている泉西の信号で右折し、二つに分かれた道のさらに右側の県道535号線を進む。 

 

さらに泉川原橋を渡ってすぐの所に今度は三雲駅から見て対岸にある東海道最大級の横田渡常夜燈が鎮座していた。

 
 
この常夜燈は火袋の中を人が1人通れるほど大きい。

 

 
「まぁーでっかい常夜燈やなぁ」と見上げていたら京都方面へ向かう旅人が道を横切りこちらへやってきて「この道は草津のほうへ行けますか」と聞く。

「行けますよ」と答えながら、何でこんな分かり易い道を聞くのかなと思っていると、持っていたガイドブックを出してきて「右か左か迷ってます」と言う。

旧道からこの常夜燈に突き当たって前に川があったら迷うことなく右折と分かりそうなものであるが、さては余程の方向音痴かなと思った。

そこでガイドブックを見せてもらうと、地図ではなく東海道の案内書で詳細な地図ではなかった。

私の持っていた草津からここまでの地図を差し上げようと思い、地図にはいろいろ書き込んでいたので全ページを接写してから差し上げた。

「なるほどこうやってコースに赤線を入れると、事前の勉強が出来るし分かり易いですね」と感心された。

ここで例の旅の目的とかこだわりを聞いてみたら、なんとこの「旅人氏」東海道を全部歩いているのではなく福井の人で、関宿から鈴鹿越えをして草津まで23日で気ままにハイクをしているとのこと。

したがって何の考えも事前準備もなく適当に歩いていて、それで結構楽しいと言う。

これも大いに有かなと思い、せかせかと仕事みたいに歩いている自分が何か馬鹿らしくなってきた。

地図をあげたのも余計なお世話だったような気がしてきた。

でも喜んでくれたのも事実、お互い勉強になったという事にしておこう。

               横田常夜燈から野洲川

県道535号線から別れて「旅人氏」が歩いてきた方へこんどは自分が歩いて行くと、すぐに泉の一里塚(日本橋から113)がある。

盛り塚になった一里塚を見るのはこれが初めてである。

先ほど見た常夜燈とともに昔の人も、これから続く長旅を癒されたんだろうなと思えるような佇まいである。

 

両側に田畑がつづく見通しの良い開けた道を行き、泉川に架かる舞込橋を渡るとそこから松並木少し続き、国宝延命地蔵尊の石碑が立つ最澄創建の泉福寺に至る。

石碑は国宝となっているが実際は重要文化財のようです。

 

この辺りからいかにも街道町という家並みが続き、さきほどの松並木と合わせて街道セットという感じである。

この辺りは「はーとバス」という滋賀バスが住民の足となっているらしいが一度もバスを見ない。

それもそのはず時刻表を見ると土日は朝夕で2本づつしか走っていない。
のんびりしている。

 


高い建物がなく空が広くて明るい真直ぐ伸びる道をひたすら進むと、遠くになにやら鐘楼のようなものが見えてきた。

近づくと柏木公民館の前に設置しているモニュメントのような鐘楼で、鐘を撞くために上りかかっている人形を取り付けている。

「このふたを開けて中をごらんください」と小さな字で書いていたので、中を覗くと広重が宿場の風景を描いていて広重の画にもある名物の干瓢を干す女達が廻っていた。

面白いことを考えるものだと感心しながらも、街道を歩いている人がどれだけ中にこのようなものがあると気が付くだろうかと思い、もっと大きな表示でアピールすべきだと思った。

 

湖南市で見たマンホール

     歴史民族資料館          うつくし松と亀甲の西 琵琶湖の水

「せせらぎ広場」へつづく