政治、経済、思想等の分野において、右ばかり向いている人、左ばかり向いている人がいます。


その中には、
めちゃくちゃ勉強した人

少し勉強した人

まったく勉強していない人

無意識にある一方を向いている人
が存在します。


ここで僕が問題視しているのは、知識レベルの話ではありません。
問題なのは、ある一方の考え方や世間で当然とされる考え方を全く疑っていないということです。


この記事で、言いたいことは
●自説や当然の事とされている事の逆を考えてみる
●突飛な事を真面目に考えてみる
この二つです。


例えば、
「戦争は無くさなくても良い」「差別はしても良い」「女性の社会進出なんて必要無い」「いじめは無くならない」等。
こんな事は、公ではいえませんよね?


僕も書いていて、大丈夫かなと不安になってます。
一見おかしいことを言っているように思えますが、
覗いてみてください。


「差別はしても良い」を例にとりましょう。少し長くなります。


A「差別はしても良いと思うんだけど」
B「差別なんか駄目に決まってるだろ」
A「何でそう思う?」
B「人種や宗教、経済力なんかの違いで不当な扱いを受けるのはおかしい。人には人権がある」


A「確かに、それは憲法や法律で決まっている。しかし、君は差別をしていないか?」
B「厳密には分からないけど、努力はしている」
A「厳密でないのなら、君は差別をしている事になるけれど、そこは許されるのかな?」
B「許されるとは言えないけど、なくしたいと思っている」


A「では、君は悪い事をしているけど、無くしたいと思っていれば現状で差別をしていてもいいのか?」
B「そんなことはない」
A「じゃあ君は裁かれるべきだが、何故裁かれていないの?」
B「だから、厳密にそこを規定するのは無理だろう。だから努力するんだ」

A「という事は、目に見えて差別と言われないような微妙なところは個人の裁量に委ねられるということかい?」
B「そうなるな」
A「だったら、努力しない者や自分の差別的な行為を認識していない者はどうなるの?」
B「だからそこは努力が必要だ。許されるべきではない」


A「君はさっきから『努力が必要、許されるべきではない』といっている。しかし、例えばいじめやセクハラなんかは、相手との人間関係によって認識が違う」

A「人によってはいじめに感じることも、ある者にはいじめに感じないことが往々にしてある。問題が問題になるのは、『多くの人』が差別だ! いじめだ! セクハラだ! と感じるときのみだ」

A「これは、『差別という事象に対する差別』に他ならない。ある者は差別といいある者は差別といわない。それはそうだ。状況や価値観が違うのだから。これは努力でどうこうできる問題ではない

A「差別することは『多くの人』が良くないと思っている。しかし、それを識別し裁く事は難しい。どうしても容認される差別が出てくる。この視点にたてば、言葉は悪いが差別はしても良いという結論にならないかい?」

B「うーむ・・・」


とまあ、即興でやってみましたが、いかがでしょうか?
屁理屈に見えるかもしれませんが、これは非常に重要なことです。


A君は常に質問しています。
こういう話をするとき『多くの人』は強く反発します。

ですので、持論をまくし立てるのではなく、話を聞いて『その論理ではここに問題がありますよ?』

とか『それで大丈夫ですか?』と進めるのが効果的です。


こうすると、常に相手は疑問を呈されるわけですから考えざるを得ません。

質問をするということは、相手の視点に立つということです。


そうでしょう?だって、相手の論理について考えて質問するわけですから。

これだけでも、違う意見を受け入れている事になります。


右を向いている人は左を向いてみる。肯定なら否定。常にそうしておかないといけません。
意識しても、中々出来ないのが人間です。


今日はここまで。