ウズベキスタンのタシケントに2日間の短いツアーに出ています。
ウズベキスタンはサンクトペテルブルクと違って、今気温が18度もありとても暖かい。青空が美しく、花が至る所に咲いており、市場の苺はとても美味しそうです。
そんな心和む風景をマリインスキーのダンサー達が沢山上げてくれているのですが、その中に、こんなものがありました。
極東から強制移送された
数百名の日本国民が、
このアリシェル・ナヴォイ〜
建設に参加し、その完成に貢献〜
と書かれていて、はっとしました。
というのも、自分の祖父が先の戦争でロシアの捕虜になっていたからです。
少し、ナヴォイ劇場のことを調べると。
8/24「ナヴォイ劇場」
中央アジアのウズベキスタンでは、1966年の大地震で首都タシュケントのほとんどの建物が崩壊してしまいました。
が、この時びくともしなかったのがナヴォイ劇場。
被災者の避難場所として活用された煉瓦造りのこの建物を造ったのは、じつは日本人です。
ウズベキスタンはその当時旧ソ連の領土だったため、ロシアに抑留された日本兵捕虜のうち約500人がここに連れてこられ、ナヴォイ劇場の建設に強制労働させられました。
ろくに食べ物を与えられない劣悪な環境の労働は苛酷なもので、500人のうち79人が亡くなっています。
しかし、彼らは強制労働であっても一切の手抜きをせず、真剣に責任感を持って建設作業に取り組みました。
その真面目な働きぶりに現地の人たちは次第に好意を抱きます。
日本兵捕虜に同情した現地の子供たちが、収容所の敷地にこっそり食べ物を差し入れました。
すると数日後、同じ場所に手作りの木のおもちゃが置かれています。
それは日本兵からのお返しでした。
捕虜の身でありながら、受けた恩に精一杯の礼儀を尽くす日本人の行いに、ウズベキスタンの人たちは尊敬の念を抱くようになります。
その後、独立国家となったウズベキスタンは現在、中央アジアで一番の親日国。あの強制労働で亡くなった79人の日本人の墓地を、いまも国を挙げて大切に守っています。
祖父は、本当に一番最後の船便で日本に帰ってきました。そして、日本に戻った後、当時のことは多くを語らなかったそうです。
祖父がこのナヴォイ劇場の建設に携わったかどうかは定かではありませんが、少なくとも祖父の仲間がこの美しい劇場を建設した。
先日、母と焼肉を食べながら、少しばかり祖父の話をしたところだったので、少し運命のようなものを感じました。
しかも、この何気なく見たサイトの8/24も私にとっては大変意味のある数字。
上記サイトにかかれている内容を読むと、涙が出てくると同時に、祖父やその仲間の皆様への尊敬の念が溢れます。
しばし黙祷を捧げます。