今回は中心である中野を特に取り上げてみようと思うのである(`・∀・´)エッヘン!!
ひとつだけ断っておくと、
とんでもなく地元の話であって、この地に所縁のある人でもなければ限りなくどうでもいい話とも言えます…(有名な偉人さんが出て来たりはしない)
ただどんな土地だろうと歴史があるっていうことが言いたいんですよええ(今思い付いた)
さてこの中野。北には鴻池財閥、そして一節には清酒発祥の地とも言われる鴻池村(あれ?ちょっと有名ドコロも話に出て来るやん前言撤回)が1km離れてるかどうかのところにある。
南には奈良時代、奈良の大仏造立プロジェクトリーダーの行基さんが建てた昆陽寺および昆陽池を中心とした昆陽村があり、東の方には古くは大鹿池と呼ばれた瑞ヶ池を擁する大鹿村があった。
西は川です武庫川です。以上。
中野は少なくとも明治初期の古地図には新田中野村と表記されている。
そう、新田開発で出来た村だったのだ!デデーン
新田を開発し中野村を開いたのは浅野孫左衛門とその愉快な仲間たち。義兄弟という渡辺新右衛門、伊予九左衛門、垂井太郎右衛門、竹山慶雲、大黒屋左兵衛、勝山忠右衛門、大串孫兵衛たち(どんだけ衛門府と兵衛府が好きやねん)で、寛永6年(1629年)幕府から許可をもらったそうで、初めは昆陽村の人たちから反発があったとか。
実はというか当然というか、彼らと同じ名字の家々が今でも古い造りの屋敷を持ってそこかしこに居らっしゃる。
訪ねてお話を聞いてみたかったりするけど私はシャイなので無理です。諦めます。
孫左衛門池ってあったらしいけど今は集合住宅が建ってます。
古代から伊丹段地は雨水などが溜まる場所がなく、そのために行基さんは昆陽池を始めとした貯水池を作ったのですが、今や規模が縮小したり消滅したり…諸行無常の響きあり。
気になるのは彼らはどこから来たのか。
浅野孫左衛門は広島藩浅野家の部屋住みだったという説があり、広島藩初代浅野長晟次男の孫左衛門守定に比定され、寛永17年(1640年)に52歳で没したという。
逆算すると1589年に生まれてるはずで、父とされる長晟は1586年生まれ…
数え4歳で父親になるってすごい時代や!
と、話の途中やけど暫定書き上げ
(続けるとは言ってない)
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