連滞する日本 山梨 小川 忠彦

 

今日は「建国記念の日」だった。

 

例によって新聞もテレビも「建国記念の日」にちなんだ特集を組んだ報道には夕方までには出会わなかった。

公共放送たるNHKも音なしの構えである。

 

メデイアたるもの「建国記念の日」には、「建国」に関わる内外各地の歴史や遺跡、神話、等々のニュースを発掘、報道し、国民に特に若者に対して広く知識を提供すべきである。

 

敗戦間もない昭和23年(1948年)に制定された「国民の祝日に関する法律」には、

「第一条 自由と平和を求めてやまない日本国民は、美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築きあげるために、ここに国民こぞつて祝い、感謝し、又は記念する日を定め、これを「国民の祝日」と名づける。」とある。

 

「国民の祝日」としての「建国記念の日」は、左翼イデオロギーによる「反日的」な抵抗もあってようやく昭和41年(1966年)に定められた。 

「建国記念の日」には、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」と法律にはある。

 

『国』の実体には歴史や文化、伝統、ふるさとなど様々あるが、何よりも中心に位置するのは

国民であり、誤解を恐れずに言えば「愛国心」とは「国民を愛する心」に尽きる。

つまり、「愛国心」とは、そこに生活する人々の幸せを社会的に追求する心であり、そのための理想社会や理想の国づくりを目指し続ける心でもあろう。

 

その心を涵養するための情報やニュースを提供するのは、メデイアの存在価値そのものではないのか。

 

特にカネにまみれた今の政治家たちの堕落ぶりを見れば、一層そう言った覚醒的な情報が望まれよう。

国民よりも政治家たちに必要な「建国記念の日」なのかもしれない…。

 

安倍元首相は総裁選初心で「瑞穂の国の資本主義を」と理想を語った。

岸田首相も「新しい資本主義を」と語った。

いずれも「助け合う日本的資本主義」を主張していた。

それがそれぞれ就任して間もなくに「強欲資本主義」に負けて捨て去られてしまった。

 

今の政治はアメリカ社会を理想のように追随しているが、アメリカ社会の癒し難い断絶振りを見逃すわけにはいかない。

今の日本政治は、「新自由主義」に基づいた政策が繰り広げられ、アメリカのように「貧富の格差」が広がる一方で問題は解決するどころか山積する一方である。

 

メデイアは権力を忖度することを止め、「このままで良いのか、ニッポン!」と、不偏不党の誇り高い立場に立ち、ニッポン社会の現実をありのままに告発し報道してもらいたい。