4月末の富士山

 

昨日の富士山である。

余りに空が青く、富士山の雪が純白にクッキリと輝いて見えたから

急いで写真機を取りに家に引き返して、そして撮った。

 

親鸞さんは、弥陀の本願に身を委ねよと言われたが、

じっと富士山を見ていると、弥陀の本願とは富士山のことではないかと思ったりする。

 

チベット仏教では五体投地という形で礼拝するが、これも大地という自然に身を任せよという仕草のように思える。

 

日本の神道はアニミズムそのものであり、あらゆる自然に「神」あるいは「神の意思」を見る。

「自然崇拝」である。

 

富士山は大昔から「神」であり「神の意思」であった。

「六根清浄」と唱えながら己の浄化を図り、そして生まれ変わる自分を目指して登山する。

 

フランスの啓蒙思想家ジャン・ジャック・ルソーは、文化・文明の発達は人間に「嘘」を持ち込み外形ばかりの道徳に堕落すると、心が空っぽになると、だから自然に帰れと主張した。

確かにこんなに文明・文化が進んだのに、一向に人間世界に『幸せ』というものがやってこないことが不思議でならない。

 

私の表現で言えば、「富士山が泣いている」ということになる。

もう少し人間は「自然さ」を、つまり「素朴さ」を取り戻した方が良いのかもしれない。

話は飛躍するが、ウクライナ戦争のプーチンを見ているとつくづくそう思う。