”自分に矢印を向ける”

 

って

 

なんか難しく考えてたけど

 

 

 

単純に

 

外側で何が起こっても

 

その出来事がどうとかじゃなくて

 

自分がどう感じてるかに意識を向けるってことか・・

 

 

 

言葉にすると当たり前なんだけど

 

 

なんだか急にすごく腑に落ちた。

 

 

自分に矢印向けて

 

感情を深掘りすると色んな気付きがある。

 

 

 

 


昨日、小学1年生の娘のクラスで6年生を送る会の時に代表でマイクで話す子やちょっとした劇?

みたいなことをやる子を決めたそう。

 

娘は全部のやりたい人に手を挙げたけど1つもならなかったと言っていて、


どうやって決まったのか聞いたら

やりたい人が後ろ向いてみんなが誰にやって欲しいか手挙げたりとか・・・と言っていて、

 

なんだか心がザワザワざわざわ(^^;)

 



でも前だったら

 

ただただもやもやしつつなんとなくやり過ごしてたと思うんだけど。(で、また同じようなことあったときにもやもやする無限ループ)

 

 


今は自分の気持ちに向き合うことが少しずつ出来るようになってきて、

 

 

 

何にもやもやしてるんだろう、どうしてザワザワするんだろうをノートで深掘りしたら

 

 



人生かけた盛大な勘違いがでてきた😳

 

 



小さい頃にあんなとされた、こんなこと言われた、とか

 

娘のようにみんなの投票でなんか選ばれなかったことがあったとか。

 

 そうゆうのが色々でてきて。





でもノートに書きながらふと思った。


そうゆうのって単に、その時のたまたまの出来事。

 

学校とゆうシステムの中で起こった単なる事実。

 

 


それをいつの間にか自分の”価値”と結びつけて、

 

それが自分の価値の全てのように感じちゃってたんだなと。


なんか唐突に理解した。

 



そんでどーせ自分は、、、状態で

自分に価値なんてない、と大いに盛大に、勘違いしたままだったのだ。

 

 

 


いやいや、そんなわけない。

 

無価値な訳ない。

 

誰も、そんな理由で価値がない人なんている訳ない。

 

 


”事実は事実”  それ以上でも以下でもない。

 

前に聞いたことのある言葉。

 


前はいまいちピンとこなかったけど今すごくわかる。

 

 


事実は事実。

そこに感情や推測や妄想や色んなものを混ぜ合わせてややこしくしてたのは自分。

 

 

そうだったんだな。

 





ちなみに娘はただただやりたかったってだけでケロっとしたもんで。

 

気にならない。とゆう解決方法もあることに今更気づかされる。

 

 

でもこれからもっと学年もあがって成長していって、色んなことあるよね。 



悲しいことがあったらちゃんと悲しんで、


たまたまそんな事があっただけで

"そうゆう人"なのではない


ってだけはしっかり伝えてあげれたらなと思う。