近鉄雑感ー列車名を変更すれば「国鉄は近鉄に完敗です」ってばれるのに・・・ | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

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◇監修 左上野 老鶴 ◇GM 経田野 横鋤 ◇照明 当代元 蔵志
☆余生を送っている人間が書いている記事ですので、恐縮ですが
 「記事更新頑張りましょう」といったコメントにはお返事できま
  せん。

前回は私の趣味で完璧に好き勝手やらせていただきましたので、今回は・・・「も」・・・まじめに

やらせていただきます。

今回は、志摩半島の鉄道を含めた交通部門が、昭和45(1970)年、完全に近鉄の勢力範囲となり、国鉄が

撤退してしまったという時代のお話を列車編成をお示ししながら進めて参りたいと思います

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忘れては困ります「名伊」:特に近鉄が山田線と志摩電鉄を結んで一大観光地に育てました

*昭和41年3月、名古屋駅 - 鳥羽駅間の快速列車は、蒸気機関車牽引の客車列車から気動車列車に

    なるとともに急行列車に格上げされます。その急行は「いすず」と命名され、2往復が岐阜駅・名古屋駅 -

     鳥羽駅間を結びましたが、所要時間や車内設備は快速時代と大して変わらないのに急行料金が必要と

   なったことや、近鉄のほうは30分 - 1時間間隔で特急・急行を運行していたことから勝負にならず

雨昭和43年10月に「いすず」は早々と廃止となってしまいます。

    またこの時、「伊勢」が「紀伊」と改称されています

  (東京駅 - 紀伊勝浦・天王寺駅間運行の編成と併結運転としてしだいに規模を縮小)。

*************<図-1:名伊列車、

          ①昭和39と43年、「伊勢」から「紀伊」へ ②昭和47「鳥羽」****

 

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☆昭和39から43年・・・そして47年

①「大和」撃沈されてしまう。

②「那智」⇒「無ち」なっちゃった

③伊勢:基本的には「鳥羽」地区への列車は「志摩半島を近鉄軍に制圧」されて

      増援することが不可能となったため、国鉄大本営は撤退することを「午前」会議で

      決定した・・・早い話、まあったく、やる気なし・・・

・・・昭和45(1970)年:大阪で万国博覧会開催・・・

<そのころの近鉄>

旧・志摩電鉄線(当時は三重交通志摩線、1067mm)に

昭和44-45(1969-1970)年、列車を運休し標準軌への改軌、750から1500Vへの昇圧工事を行なっています

(バス代行輸送あり)。また半ば貨物専用だった賢島 - 真珠港間を廃止しました。そして、少し前から工事が

始まっていた鳥羽線の1970年の開業(のちほどもう一度)にあわせて、同線と繋がり、大阪・名古屋方面との

列車の直通運転が開始されました。

☆☆昭和47年

「紀伊」:国鉄、失地回復の意地無し・・・

・・・すいません・・・やっぱり今回もやりたい放題で・・・

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(-1)「伊勢」:昭和31.11まで遡ると単独運転ですが、次の手元にある時刻表が36-10で、この時はすでに

伊勢ー那智併結となっております。ですから、この単独運転の時期がいつまで続いたか、追い切れていません。

 

 S31.11 荷・荷・①ハ②ハ③ハ④ハ⑤ハ⑥並ロ⑦特ロ⑧ロネC(*)ー

       -⑨ハ⑩ハネ⑪特ロ⑫並ロハ(**)⑬ハ⑭ハ

    基本編成「鳥羽ー東京:⑨-⑭」、付属編成「名古屋転回・東京ー名古屋:①-⑧」

(*)ロネC:現在このクラスの寝台車は存在しません。3等級制から2等級制になった時、

    1等寝台イネが、<一人用・二人用個室>が一等寝台(ロネ)A、

               <解放室で日中対向座席:プルマン式>も一等寝台(ロネ)B

         2等寝台解放室、日中長手方向座席、非冷房が一等寝台ロネC、

          3等寝台が2等寝台ハネとなりました。

 当列車⑧のロネCは下記「マロネ29」と思われます。

(**)並ロハ:昭和5/7(1930/32)年製、二重屋根のスロハ31450⇒スロハ31(23輌)。

        二等は固定クロスで一部が阪和経由で紀勢線・準急「黒潮」の編成に組み込まれました。

       丸屋根スロハ31500もスロハ31にまとめられました。

       また緩急車は、二重屋根のスロハフ31700(昭和6年初年)と丸屋根のスロハフ31750は

       スロハフ30形にまとめられました(こちらも固定クロス)。

    **徒然なるままに思い出しますと・・・

       後年、スロハ31から4輌、スロハフ30から2輌の台枠がオシ17の台枠に供出されました。

       さらに下って「昭和47(1972)年11月6日未明」、死者30、負傷者700余人を出した「北陸

       トンネル火災事故」の「主犯?」が「青森行・急行きたぐに(旧・急行日本海)」の食堂車から失火?

       火災の原因は、食堂車の喫煙室長椅子下にある電気暖房装置のショート(基準違反の配線と

       配線の緩みであったことが判明しています)。実はこの食堂車、「オシ17」でありまして、ほかの6輌は   

       すぐ運用からはずされました。

        分類上は10系客車に入っておりましたが、古い台枠に新しい外殻もありか?と当時(私は高1で

        「車輌更新」についての知識は全くありませんでした・・・場合によっては「更新」といっても、実際は

        名義変更による新製・・・などとかかれるとモーさっぱりで・・・)はずいぶんと驚いたものです。

        この「オシ17」が第一線から引いたことで「夜行急行」の食堂車連結はなくなりました。

****************図-2旧3等級制・二等寝台⇒二等級制後・一等寝台ロネC

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昭和47年3月に「紀伊」の鳥羽行き編成が廃止されて、名古屋方面から参宮線へ直通する優等・速達列車は

一旦消滅と、ユーより、昭和43年、鳥羽転回車輌を2輌にした時点で、国鉄は近鉄との「真っ向ショーブをホーキした」のが見て取れます(敵前トーボーか?)。名古屋駅 - 松阪駅間の優等列車は紀勢本線に直通する特急「南紀」などの運行が継続されるものの、運賃料金・頻度・車両いずれをとっても近鉄特急と勝負する状態とはとてもとてもいいがたいものでありました。そのため当時は名古屋 - 伊勢方面のみならず、名古屋 - 紀勢本線方面(尾鷲・熊野市など)の移動でさえ、名古屋駅 - 松阪駅間では近鉄を利用する者が多かったほどです。

 

●「志摩電鉄(半島交通統制)」に対する国鉄と近鉄の考え方

*志摩半島交通網(昭和40,1965年以降)

#国鉄:ーーー●山田ーーー●鳥羽

#近鉄:ーーー●伊勢市止まり(伊勢ー鳥羽間にバスあり)

#シマデン:    ●山田ーーー●鳥羽(---<貨物>---真珠港)*<シマデン>は近鉄支配下

 

☆志摩電鉄の歴史

■国有鉄道・参宮線

山田までは明治26(1894)年、参宮鉄道が開通させました。引き続き、鳥羽まで敷設計画を立てますが、

明治40年、同鉄道の国有化に伴い、鉄道省が明治43(1911)年、鳥羽駅まで到達させました。

この鉄道到来により、鉄道による半島縦断の機運が高まり、大正15年、志摩電気鉄道が設立、

昭和4(1929)年、電車が走り始めます。

鉄道開通を記念し、当時無人島であった賢島の土地が志摩電気鉄道に寄付され、駅前周辺および賢島駅と

奥志摩の各地を結ぶ航路の基地となる賢島港が整備されまた。

その後、三重県下の中小私鉄・バス会社を戦中の交通統制の方針で統合することになり(昭和19.2.11)、その

結果6社が合併して発足した三重交通の保有路線となり、同社から一時的に鉄道部門を分離(昭和39.2.1)させた

三重電気鉄道時代を経て、昭和40(1965)年の同社合併で近畿日本鉄道の路線となったのでした。

 

トコロデ、「志摩電氣鐡道」の元々の鳥羽駅の構内配線は、鳥羽駅で接続する国鉄参宮線と貨車の直通

行うため、1067mm軌間750V電化を採用、鳥羽駅では国鉄駅の東片端から発着しておりました。ですから、

近鉄誕生後であっても国有化のチャンスは、考えようによっては、軌道幅や、そして貨物が往来していた

実績など考えますと、それまでの結びつきに活路をみいだせたかな?とも思います。とはいえ、それは、昭和

19年、戦時交通統制令の時、「シマデン」を国有化、他を三重交通としてしまうという大変強引な手が政府命令で

できたのではと・・・これがおそらく最初で、最後の、しかもかなり可能性の低い<国鉄+シマデン>を結びつける

ことができた瞬間だったと思われます。この時期「近鉄」としての事業体はまだ大変脆弱で、戦後に至っては、

南海離反時に「河内長野」で接点を同じくする「近鉄・南大阪線系統」がそのまま南海についていくなどと

いった「リューゲンヒゴ」まで流れる始末とあっては、国鉄としては、このどさくさを利用して、なぜ、将来、ドル箱に

成長しうる賢島線をのっとって(あるいは逓信省と徒党を組んで)横取りしなかったのか(戦時交通統制令

発令時の逓信鐡道大臣はチョット曲者・佐藤栄作氏)不思議でなりません。帝国鉄道省職員のプライドが、

最後の最後で強引な圧力行使に歯止めをかけたのか?それとも、もって生まれた、ダイミョウショーバイ

気質が出てしまったか?その辺はわかりませんが??

もう少し後になりますと、「名伊」を一大観光地に育てた近鉄は、「新幹線に名阪ノンストップ特急(甲特急)は

輸送人員・収入面では後れを取りましたが、名阪では主要駅停車の乙特急をふやし、名伊では甲特急を

増やし「東京ー名古屋新幹線+名阪と伊勢には近鉄特急」をアピール。近鉄・大阪線沿線と志摩半島までの

速達性を大いに喧伝いたしました。特に志摩半島の開発の計画性・迅速性は、宣伝のセンス、「何が何でも

儲ける(少し言い過ぎ?)」といったコンジョーとともに、近鉄は国鉄の2枚も3枚も上とおもいますし、だからこそ

企業として発展するのだと改めて感じました

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◆上の図のまとめ:東京から直接鳥羽行きは何輌?

(-1)昭和31.11月:図はありません、「急行・鳥羽」単独運行

   特2等車(現・G車#)x1、並2等車/3等車合造車x1、3等寝台車x1、3等座席車x3の計6輌

    この時3等級制で、3等車は、その後2等車となり、現在の普通車です。

    3等座席車の指定かどうかは不明です

 間の36-10はすでに「那智」と併結です。指自ロx1、ハネx1、ハx4

1.39-10「那智」と併結

  基本:鳥羽ー東京 6輌 付属:名古屋回転

    基本 ロザx1、ハザx3、ハネx2+ 付属: Bネx1、ハネx1

 2.43-10、「伊勢」から「紀伊」へ

   伊勢地方への介入を早々と放棄、伊勢地方には「いかないからねー」という意思表示でしょーか?

 「紀伊」は」単独運転となりましたが、鳥羽行きは15輌編成中2輌で、ハネ+ハザでした

3.最後47-10です。

  紀伊は再び併結列車、相棒は銀河3号です

   行き先は「紀伊勝浦」のみで6輌編成、A寝台X1+B寝台X5でありました。

 

 前々段で申しました通り、東京からの夜行の直通の急行が、今度こそホントーに、客車単位で見ても

  なくなってしまいました。

 しかも、愛称名は、完全放棄する以前から「きい」とまで変えてしまって、これは「奇異」なことと言わざるを

 得ません!!。(タイジョーせや・・・)

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「特2」

 それまで、本邦の「2等車」は普通列車、準急列車クラスで幅広シートピッチのボックス(3等級時代は3等車の

 1.5倍ほど)席でした。そして1等車は展望車(スイテ、マイテ)であります。

 そこに降ってわいてきた、シンチューグン(連合軍総司令部民間運輸局、以下CTSと略します)の客車

チューモン・・・

昭和25(1950)年・・・「どして、日本の鉄道にはコーチないの?」「四国にあるよ」と、いった会話があったかどうかは私は知りませんが、諸賢ご存じのごとく、欧米の鉄道では、客車に密閉式と、解放式があり、解放の中で

一番上のクラスを”coach"として、リクライニング付座席が用意されています。かといって、そこは1等車では

なく、1等車には、横2 or 3列、テーブル付き、半密閉式(通路側に体半分ほど隠れるほどのアクリル盤などで

仕切られています・・・等付帯条件・何らかのフロク・付加価値がつきます。

指定席車は原則として作らず、希望者のみ、着席した段階からその乗客が降車するまで、個人の座席として、

座席を確保(着席保障)することができますが、それが、欧米流の「座席指定」であります。

ですから、突然、隣の席が指定席になったりします。もちろん、日本のように「*時発、++行、##号車

XX番に座りたい」といった通信予約も可能であります。しかし、なんといっても、事前予約を極力減らすことで、

指定券・寝台券の契約不履行(ドタキャン、no show[脳症ではありません])が出てこないことは、欧米の鉄道

職員にはメンドーが少なくなってうれしーことなのでしょう。

ところでcoachはもともとは「ハンガリーのKocsコクス村」が語源ですが、英国に渡って2頭立ての馬車の意味に

なり、ハンドバックなどのブランドメーカーとしての店名のほうが有名になってしまいました。

えーーーー、コーチをほとんどの日本の鉄道職員が見たことがなかったため、改めて見てみるとあまりにも

立派すぎるのでびっくりして1等車にしたいといったところ、連合国将校ぬ、欧米ではごくフツー車のフツー席

だから2等車にしなさい、とキョーイク的シドーが入り、2等車二本立ては昭和33年まで続きました。

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さてその一方で、「奇異」な列車を走らせている間に、近鉄さんは志摩半島で、どんなことをやらかしていたか

というかご紹介していきたいと思います。

ちょっと時間は戻りますが・・・

戦後の高度成長期に入り、近鉄は伊勢志摩方面の観光事業を推し進め、当時の近鉄線の終点であった

宇治山田駅の1番線ホームにバスが横付け停車できるよう改造しました。

昭和36年4月から近鉄特急の到着に合わせて、三重急行(三重交通と近鉄共同出資)の賢島行特急バスが

接続するように時刻を客誘致が効率よくできるよう設定しておりました。それでも、本格的に伊勢志摩の

観光市場を掘り起こすには、やはり大阪・名古屋方面から直接アクセスできるほうがよく、三重交通志摩線は

三重交通の鉄道事業の三重電気鉄道への分離の後に、昭和40年に近鉄へ合併、同社志摩線となり

ました

その上で、山田線と志摩線をつなぐ鳥羽線(13.2km)を建設し、志摩線(旧・志摩電鉄線)も軌間1435mmの標準軌に

改めて、賢島駅まで特急を直通させることにしたのでした。

全線が開業したのは昭和45年でしたが、当初は需要・工期の面から単線のみでの開業でした。この開業は、

当時まだ京都方面から直通急行列車が乗り入れており、ある程度の活況を見せていた国鉄参宮線に打撃を

与え、完全なローカル線へ転落させる要因となりました。開通から5年後の昭和50年複線化が完成しました。

 ●近鉄の車輛を是が非でも海の見えるところまで走らせたいといった根性が結実し、いい結果になりました。

   大阪で開催された万国博覧会の入場者を伊勢志摩に誘導したくて頑張ったというのが本音でしょう。

 ●また、特急専用車輌として「12200系」が昭和44年に就役しておりますが、国鉄車輌のビュフェに倣い

   軽食コーナーを設け、「スナックカー」と呼び名をつけております。

   また、過去の名車「2200形」にちなんで、翌年から始まる予定の伊勢志摩開発が成功するようにと

   新車も「10000+2200」形としたとうかがっております。

■わけのわからんのが、国鉄参宮線の動きで、始めは近鉄「伊勢市」より国鉄「鳥羽駅」のほうが、海岸に14km

  も近かったのに、隣で何をやっていたかくらいはわかるでしょう・・・その間無為無策だなんて・・・

 それで、赤字に転落しましたと言われても、だれからも同情はされませんでしょう。

 こうやってなるべくして赤字になったという線区もほかにもあるんぢゃないんですか?

 いま、営業収支が悪い線区と言っても、始めに手を打っておけば何とかなったところもあるんでしょ?

 ハクジョしなさいよ!!

 

近鉄雑感ー列車名を変更すれば「国鉄は近鉄に完敗です」ってばれるのに・・・

 

今回は国鉄がボヤーとしている間に近鉄にしてやられたというお話でした。

最後までおつきあいくださいました方、ありがとう存じました。

 

次回は「シマデン」の予定です。

ちょっと癖のある車など(この人とか)↓いたもので・・・

シマデン 旧5400 養老線時代次回も載せます