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●上目名峠と周辺のモロモロのお話
<C62をもとめて>
1965年ころからでしょうか?1971(昭和46)年、あるいは1972年のお別れ運転まで、全国の
撮り鉄さん、SLフリークさんたちが「この地区のハドソン機」に熱狂しましたのは。
特に除煙板にブリキを切り抜いたツバメマークの入った、スワロー・エンジェル(C62 2)に
注目が集まりました。
巨人機重連の "峠の攻め" に全国のファンの方々は、興奮して、カンドーして、そして
それぞれの余韻と想いを抱きしめ、大地をふみしめてお帰りになったことと思います。
もー、40年もたってしまいました。
そしてこのC62たちを貰い受けた「セノハチ」からC62/D52がきえて2016年で60年となります。
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<図ー18>京都・梅小路機関区に動態保存となっていたC62 2
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開設後ちょうど1年経ちました、京都・梅小路機関区です。
この日は高校の修学旅行の自由行動の日で、映っている人物は
私のわがままに付き合ってくれた同級生です。
除煙板の白っぽいツバメマーク「ε」のようにもみえますか?
おわかりいただけますか?
昭和48(1973).10.17撮影。
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函館線を小樽方から南下しますと、倶知安の30km過ぎ付近から、次第に山線最後の急勾配に
さしかかります。蘭越駅はそんな急勾配が始まる駅です。
上り列車は「倶知安峠」を下ってくると、標高が30mと付近では一番低い「蘭越」で
"気合を入れ直す”かのようにしてまた上目名峠にアタックするのです。
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<図ー19 山線最後にして最大のクライマックス!上目名峠付近の時刻表>
☆倶知安ー長万部間所要時間
●サンロクトオ(1961)改正では
蒸機急行「まりも」は1時間33分1961(C62x2)※
●ヨンサントオ(1968)
ディーゼル急行宗谷は1時間26分
●1974
ディーゼル特急北海1時間21分(キハ82系)
●1977
急客ニセコ1時間40分[DD51x2]※1
◆2014.10道内時刻表(交通新聞社)
最速各駅停車1時間37分(2948D)※2
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※1;C62x2=1660x2=3320PS
※1:DD51重連総括制御
=2200(機関単体定格出力)x0.7(動輪周に伝達しうるエネルギー効率)
2200x0.7x0.7(総括制御時に伝達損失される電気的エネルギー=30%を2台目でさらに減じる)
=1540+1078=2618PS(C62重連の78.9%、単機牽引の157.7%)
◎液圧式ディーゼル機関車の重連総括運転は合理的ですが、エネルギー効率が悪いのです。
DD51の場合は2618/2200x2=59.5%にしかなりません。
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※2 最近のディーゼル機関のパワーには目を見張るものがあります。
チョット大げさな表現を使いますと、一昔前のディーゼル優等列車の所要時間にかなり接近しました。
(実はこのほかに1時間50分ほどかかる列車もあります)。
おそらく、起動加速度と登り勾配での加速度が電車並みに近づいた結果ではないかではないかと
思われます。
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<寿都町の話>
一方、上目名峠の南側の麓の駅、黒松内から日本海側に進みますと、「寿都町」に出ます。
昭和38(1963)年に雷電峠のトンネルが開削され不通箇所でありました、その付近の国道229
号線が開通し、小樽・札幌方面へのメインルートは、海岸線沿いのルートになりました。
それまでは、黒松内まで、寿都鉄道線か同鉄道バスで出るか、あるいは北海道中央バスを利用して、
蘭越まで出て、いずれも函館本線に乗り換えるというものでしたがいずれも、雷電峠経由より
寿都ー札幌間は1時間ほど余計にかかりました。
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<図ー14’’ 上目名付近峠付近>

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ただ、蘭越まで出ますと10/25にご紹介しました、倶知安以南が普通列車になるローカル
準急に出会えます。・・・といっても1日一回。
http://ameblo.jp/teinahoshi/entry-11943553541.html
また、黒松内廻りですと、朝2番のバスで寿都を出て黒松内で乗り換え後、小樽でその列車を
降りて、後から追いかけてきた急行「大雪」に乗り換えますと、札幌に30分ほど早くつきました。
当然コレも日に1回。しかも朝2番バスといっても、寿都朝7:00発です。
当時は函館ー札幌間普通列車が4往復+急行「大雪」「(分断される前の)まりも」
「あかしや」があったと思いますが、急行は全便黒松内は通過しておりました。
(上の急行などの記憶もイー加減なもので、図ー20でご確認いただけますか)。
片や、雷電峠のバス便は①寿都ー岩内ー札幌②寿都ー岩内ー小樽ー札幌
③寿都ー小樽ー札幌と3種類の系統がありましたが、合計6往復と函館線廻りの
札幌・小樽ー寿都鉄道沿線の乗客をほぼ吸収してしまいました。
所要時間が短く、本数も比較的そろっているバス路線に乗客が移っていくのはやむをえません。
・・・と思って居りましたら、この鉄道から乗客を奪った寿都ー小樽線は6年ほど前、「お上」から
今後、「乗客の減少に歯止めがかかること、あるいは、増加の兆しを認める確証なし」、と赤字助成金を
打ち切られるほどに乗客が減ったようです。
私が寿都に住んでおりました昭和30年代後半(1960-65年頃)、寿都の人口はギリギリ1万人、
現在はその1/3程度です。やむえないのでしょうね。
それから、話は寿都ー蘭越のバスに戻りますが、私は、どうして蘭越に「町」ができ、
函館本線とのジャンクションとなりえたか、高校生あたりまでわかりませんでした。
でも答は案外簡単だったような気がいたします。・・・といっても、SLブームが来なければ、
蘭越が意外と低い土地に立地している町だとは知らず、今でも答が出ていなかったかも
しれませんが。
多分答えは、標高が低ければ、物資の集散に便利だったり、地下水に恵まれていたのでしょう。
また、峠の直前の駅としてのある程度、、基幹的機能を受け持たされていた駅なのかもしれません。
ところで例の雷電峠を含む「雷電国道」といわれる一帯ですが、開通以来、、ジワジワと、しかし
懸命に路線改良⇒長トンネル(排煙装置付)又はトンネル、路線の直線化、或いは曲線緩和、
路面のアップダウンの改善、道路の拡幅…まだまだあります・・・何年かかるでしょうか?
確か一番長いトンネルは「雷電トンネルの約3700m、一番新しいトンネルは平成17年?でしょうか?
24時間365日その姿を変えているといっても過言ではないと思います。
これには、平成8(1996)年の、豊浜トンネル崩落事故(*)が、道路管理者の頭を常によぎっていることは
否定できないでしょう。
(*)豊浜トンネル崩落事故:積丹半島の余市側から入った古平町と余市町の境のトンネルで崩落事故があり
路線バスの乗員・乗客19人、四輪駆動車の運転手が圧死。救出の段取り、手際、責任の所在が事故後も
大いにもめました。
<峠と上目名駅のこと>
その上目名峠ですが、平均斜度20、最高斜度22.3、換算斜度(曲線半径の転がり抵抗の増加分を
加味=それら”走行抵抗”の増加で落ちる速度を、斜度の増加分に換算⇒本来の最高斜度に足し算、
仮想の登り坂を作ります)25‰の上目名峠が出来上がりです。
上目名地区のホントーの最高点は「蘭越町ー黒松内町の境界線上にあって、函館線はトンネルで抜けております。
上目名駅はトンネルのやや北側(小樽側)にあります。この付近の駅はすべて鉄道開通と同時の明治期にできた
駅ですが、同駅のみは大正2(1913)年、峠のネックを解消するため開設されました。
戦後は熱郛と上目名駅との間に北海道鉄道総局と青函局の境界線があったためか、昭和30年代まで電報
取扱い駅で、再三ご紹介のローカル準急の終着駅でもありました。
そして、冒頭、のエピソードのようにSL撮影場所として、一躍全国区に躍り出ましたが、昭和59(1984)年、貨物列車の
運行が整理され、駅勢人口が1人となったことから、同年中に廃駅となりました。
●黒松内機関庫とわかさいも
<黒松内駅のこと>
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*黒松内駅小史
・明治36(1903)年、初代北海道鉄道の、1つ小樽寄りの「熱郛」までの開通時、途中駅として開設
されました。
機関庫は、終点の熱郛ではなく当駅に設置。当時は熱郛村、黒松内村別な自治体でしたが、
村の面積が、黒松内の方が2倍あり道路を拡幅しやすいことや、駅周囲の平野部の広さが
勝っていることから、物資の集積、人の流れを誘導するのには有利であると考えられたため、
機関庫は当駅設置に決定したかと思われます。
しかし、上目名峠の南側の補機の基地としての天下はそう長くは続かず、昭和3年、室蘭本線の
全通により、機関庫が長万部に移動、黒松内の機関庫は支区に格下げ、機関車1台のみ常駐の
基地?になってしまいました
(私が寿都にいた時は、まだこの支区はありました)。
,・明治40(1902)年、国有化
・大正9(1920)年、寿都鉄道開業。
・昭和3(1928)年、長万部ー東輪西(⇒東室蘭)間鉄道開通(室蘭線、長万部ー岩見沢全通)
・昭和7(1932)年、黒松内機関庫が長万部機関庫黒松内分庫となる
・昭和43(1968)年)、寿都鉄道線休止。
・昭和47(1972)年)、 寿都鉄道線廃止許可(※)。
・昭和54(1979)年、駅舎改築。
・平成14(2002)年)4月1日 - 黒松内駅長が廃止(長万部駅長管理駅となる)
・平成19(2007)年、無人化
※平成17年度現在、寿都鉄道清算事業団は解散しておらず、「その気がある<奇特な方>が
現れれば寿都鉄道の再企業は可能と地元紙に書かれてありました。
その後、どー、なりましたことやら・・・
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黒松内駅は国道5号線(現・主要道道9号線)から西側に入ったひっそりした佇まいの町の
少し奥まったところにありました。
静かといいましても、「沈滞」という意味ではなく「落ち着いた、浮ついていない」と取って
いただければよろしいかと・・
駅員さんはいつも元気でありました。
構内は、側線がたくさんあって、付近では跨線橋がある唯一の駅でした。
まさか、ここが昭和3年まで、峠越えの補機専用機関庫まであった一大基地だったとは・・・
<わかさいも>のこと
当然、峠越えの準備の合間には、発車までの時間があくわけで、寿都ご出身の
「若狭函寿(はこす)氏」が、インゲン、てぼう豆ほかいもを一切使わずして、外見が
小型の石焼きいも風の菓子を大正12(1923)年から黒松内構内での販売を始め、好評を
博しました。
ところが、昭和3(1928)年急行の、メイン・ルートが変わったところで売上が激減。
昭和5年洞爺温泉地区に移転。現在に至っております。
<図ー20 山線主要駅の優等列車の本数と停車駅>
・小樽・倶知安は全便停車なので表から省きました。
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●寿都町ー寿都鉄道ー朱太川
寿都に住んでおりましたが、寿都鉄道線を休止に追い込んだ朱太(しゅぶと)川の氾濫を見ずして
彼の地を離れたのは不幸中の幸いだったでありましょうか・・・?
前々からお話し申し上げていますように、私は昭和30年代後半(1965年直前)、寿都に
3年(小学1-3年)住んでおりました。
黒松内から北側に向かいますとすぐ比較的おおきな鉄橋を渡ります。
これが「黒松内川鉄橋」デアリマス。
普段は川幅こそ広いですが、水量は多くもなく少なくもといったところ・・・
これが、豪雨ともなると水量がたちまち増えてモー大変・・・
じつは、チョット下流に行きますと「朱太川」と合流いたしますが、こいつがケッコー
悪い奴でして・・・古~い時代にも大暴れしたことがあるらしいのですが、(図ー19・・・細かくて
すいません・・・をご覧いただきながら、黒◆の上から2-3番目、寿都鉄道の樽岸ー湯別間と
並走いたします)、昭和43(1963)年8月の集中豪雨で、先の2駅間の道床がほとんど持っていかれて
一部は宙づりとなり、鉄道線は再生をあきらめざるを得ませんでした。
上記、黒松内駅ー黒松内駅小史で書かせていただきましたように、本鉄道の清算は決着がついたのでしょうか?
ご存知の方、御教示いただけますとありがたいです。
さて、この鉄道線戦後まだガソリンの供給がよくないときには一日4往復だったのですが、次第にバスに押され、
わたしがいたころには3往復・・・さらに・・・2往復とへって、最晩年(昭和42[1967]年)は0.5往復とゆー・・・って・・・
岩内線がひょっとして、函館線のバイパスとして、小沢ー岩内ー一部日本海側海岸線よりのラインー湯別
-黒松内・・・と走るかもしれない!!(実際鍬入れまでやりました)・・・で、その時寿都鉄道が稼働していなかったら
ホショー金あげないよー、といわれたらどーしよー(少しお上から廃線時、余計に出たようです)、とゆーことで、
苦肉の0.5往復の走行となったのでした。
でもこれって、やっぱり、はんそくだよね。
ひとつ言い訳しておきますが、寿都鉄道は、寿都町内はもっと繁華なコースを取りたかったようですし、駅も
町中に設けたかったようでした。軌道は、町の高台、駅は黒松内よりで、中心部から北東に離れていました。
これには、建設当初の「お上」と「軍部」のお考えもあったようで
*お上:日本海側に沿って函館に至る鉄道を作りたい(このコースは難コースで計画線にはありません)
*軍部:作るなら、ロシア艦隊の艦砲射撃の届かぬ高台を走るようコース選定しなさい
(寿都の平野部は狭いのでどこに軌道を敷いても、当時でさえ町全体があらゆる軍用艦の
射程距離内です)
ここから導かれることは、当鉄道はほとんど独力地元資金で開業した鉄道ですが、最後になって、資金繰りが
苦しくなった。
それで、町の入り口に駅を持ってきたが、正当な理由がほしかった。戦後になって自分たちで「理由」を口コミで
ながした・・・かな?・・・はずれ?
今となってはどーでもいーことですね・・・・・
●羊蹄山麓~ニセコ町のオーストラリア化?
2000年+αあたりから、冬山の雪質、羊を食べる食習慣(たとえば、ジンギスカン定食に、Mongolian Lamb BBQ、
堂々とGrilled Australian Lamb ・・・)などオーストラリアの方々には生活しやすいようです。
宿泊客は、2002年度こそ4400人でしたが、2003年度は23000人で以後1-2万人/年のペースで増えています。
2013年になりますと
「ニセコはあきた」と仰せになって、白馬に殺到する御仁があらわれておられるとか・・・
ま、その辺、ジユーですけどね・・・地価、ホテル代が上がって、ペンション建てられなくなっちゃったとか、
冬、スキーに来ようと思っていたリピーターが予算不足になってこられなくなったとか、ゆー責任は、
どこが、或いはどこがとるのかな?
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すいません。
昔のこと思い出して書いていたら、入れ込みすぎて説明だけで終わってしまいました。
次回はまじめにやります(今回も真面目なんですけどね、いちおー)
JR北街道のヤボー:山線最終区間、C62の夢の跡と黒松内機関区、ついでにわかさいもを偲ぶ:1/2
了


