どこがチューモクかって?
①石狩平野の東端、継立駅(標高68m)-直線距離3.3km-錦沢駅(標高136m)-直線距離4.6km
-分水嶺<雨霧山509m>を越えた後の>平和駅(標高243m)
☆継立ー平和駅間の直線距離の勾配を計算すると:243-68m/3.3+4.6=22.2‰
→C62重連で有名になった、目名ー上目名の勾配と同等ですが、これにスイッチバックなど
入り、勾配緩和に命をかけますが(国鉄に負けるわけにいきませんので)、そこら辺は
またいつかどこかで・・・
②平和ー夕張本町間は代表礦または工場、加工場:があるたびに列車は駅間距離が短い駅に
停車を強いられました。
野幌ー平和:47.4km/15駅=3.2km/駅
平和ー夕張本町:5.8km/9駅=0.64km/駅
かといって、遺構をすべて拾えているかと言えば、全く駄目です・・・
その、ダメダメ・レポートがこれから始まります。
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<写真ー8>継立、旧・駅舎

すいません。すこし見づらいですね。
現在も、使われています。
やはり、多少古くても、人手が入ると違うものです。
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<写真ー9>新二岐、旧・駅舎(2代目)
夕鉄の旧・駅舎群の中ではもちろん、保存状態の良好さは、全国レベルかと思われます。
駅開設は大正15年ですが、その後昭和29(1954)年に改築しております。
関係者の方々の愛着が感じられる保存状態と言うべきでありましょうか・・・
さてこの次がいよいよ問題のスイッチバックの錦沢駅へと続く山岳路線の入口です。
つかず離れずの道々も勾配・曲線ともきつくなっていきます。
<前半>でご紹介したバスの札幌行きの他、時代が下ると、「夕張ー札幌」を直接2時間
程度で結ぶ「札夕線・さつゆうせん or さっせきせん」なるものが登場します。
今度は北海道中央バスと、三菱鉱業バスとの対決でした。細かいことを書くときりがないので・・
・この辺も話せと言えば一晩中話せるくらいのオモロイ話題はあるでしょうね・・・次の機会に・・・
競争するのはいいことかもしれませんけれど人口減少地域でやらなくたって・・・ねぇ~・・・
そのまた次の平和駅からΩループが始まり、鉱業所前と夕製前の駅の間で国鉄・夕張線
(石勝線に編入前線路区分)を乗り越えておりました。
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<写真ー10>若菜邊→若菜、旧・駅舎
画面左側が夕張方、右が平和・錦沢方面(夕鉄)、清水沢・沼ノ沢方面(国鉄)。
「若菜」は近隣のほとんどの炭鉱マンの炭住街でありました。総合体育館もあり
商店街も充実、夕鉄本社ビルもここに置かれ、規模の大きなバスターミナルからは
時をおかずしてバスが出入りする情景が見られました。
若菜は、夕張の人たちにとって、住宅兼ショッピングセンター兼交通の結節点でありました。
写真に戻ります。
もう今となっては、確認しようがありませんが、「若菜駅」の構内配線は「平和駅」と同様
片式1面1線+通過側線X2の1面3線だったということです。
旅客は、上下線は片面ホームでさばき、列車交換は、旅客ー貨物または貨物ー貨物、
現代の「岩手開発鉄道」がまだ旅客を扱っていたころの構内配線を御存じの方がおいででしたら、
例えば「日頃市」などはいいモデルになるかと思われます。
駅舎で特徴的なのは、なんといっても正面・側面と2面にアーチ型のステンド・グラスを配して
あることではないでしょうか。
1面の駅は、多くはありませんが、小田原(大正9[1920]年)、琴平(昭和4[1929]年)と
探せばあります→<写真11>。
省線に負けない気概と余裕もあるよ!といった遊び心も感じる、建築物としても、優れた感情が
もりこまれた豊かな気持ちが伝わる建物に仕上がっているように見えます。
また、産炭が元気なころ、当駅から終点・夕張本町まで電化、区間列車の頻繁運転をする
計画もあったようですが・・・
流れてよかったのか、それとも、山の路線は電車に限ると、国鉄が考えるようなヒントにでも
なったか・・・こればかりはわかりません。
御面倒をおかけします。写真の最後のお話です。
手前は石勝線編入直前の国鉄・夕張線。左が終点・夕張方、右手は紅葉山方。
南千歳ー狩勝信号所の供用開始は昭和56[1981]年10月1日で、この路線もあと2月程で
「石勝線」となるはずでした。
私は、そんなことなど、なーーーーんも知らないで、ガッコをさぼって好きなことをしていたのでした。
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<図ー2>若菜付近
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<写真ー11>ドーム状のステンドグラスは、駅壁面1面だけですと、比較的見つけやすいですが、
若菜のように2-3面ともなると貴重品ですね。
上段:東海道線・小田原駅、先代(初代)、大正9(1920)年竣工。
下段:土讃線・琴平駅、現駅、昭和4(1929)年竣工。
若菜は大正15年竣工ですから、駅建築に「半円形を配す」というのは一つの流行の
ようにも思えてきます。
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<写真ー12>営林署前駅、一応旧・駅舎なのですが・・・

当駅は夕張営林署から指呼の距離にあり、夕鉄共栄社の売店が併設されていました。
片式ホーム1面1線構造の駅で、売店の出入り口と言うのか窓口は線路側を向いていた
ものですから、はじめ、私は商店の出入り口にテラスのようなものをつけて、それをホームに
したのかと思いました。
ホームは板張りでしたので、私がそーぞーしていたこーぞーと大差なかったわけですが、
随分と、まー、オーチャクな駅の作り方だと思ったものです。
夕鉄廃止後も、建物の外観も変わることなく、そのオープンテラスのようなスタイルで
「共栄社」は営業しておりましたし、若菜からの国鉄線との
高低差も詰まってこの辺ですと、完全に複線配線に見えました。
急行運転開始の折は、ごくはじめのころ、当駅と、次の次の「末広」は通過しておりました。
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<写真ー13>鹿ノ谷、現在駅

夕張鉄道は昭和50(1975)年に全面撤退、国鉄は昭和59(1984)年無人化され、現在、島式ホームの
片面使用の1面1線構造となりました。
駅舎は、二重ファサードのうち、上部の大きい方のそれは撤去され、屋根は1枚もの、
全くのフラットになり、正面の壁のハーフティンバーは塗りこめられ、大壁造りとなりました。
また、床面積は、玄関から右翼の方が大きかったはずですが、現在、左翼の1/2程度で、
減築されているようです。
鹿ノ谷は、駅面積750x500m=375000平方m(東京ドームx8)で、国鉄側は2面3線構造+多数の
貨物側線、夕鉄側は1面2線ながら保線区、車輌区、機関区所在駅で、両鉄道にとって夕張地区
最大の拠点駅でありました。
また住宅地区としても、重役宅、来賓用接客設備を要する、北炭にとっては若菜とくらべても
勝るとも劣らない重要住宅街であったのです。
<夕張鹿鳴館(ゆうばりろくめいかん)>・・・<図ー2>「若菜付近」もご覧くださいネ
は、元々北炭の迎賓館「鹿ノ谷倶楽部」で、現在はレストランになっています。
外観は和風で洋間もある和洋折衷の建物で、明治期より長期に亘り絶頂期にあった
会社が所有していたことを窺わせる豪華な作りが特色。
以前は、会社幹部の会合や政治家の接待、ごく稀に皇族の宿泊(昭和天皇ご宿泊、
昭和29[1954]年)施設にも用いられていました。
ヤマが好景気に沸いていた時期にはごく限られた上流階級の施設として君臨して
いましたが、閉山後は、夕張市→夕張リゾート→小樽市内の業者と権利者が二転三転、
最終権利者が、平成21(2009)年よりレストランを開店することにより、長い間の
「幻の施設」から目覚めたようです。
なお以下の指定を受けています。
・国の登録有形文化財登録
・「空知の炭鉱関連施設と生活文化」として北海道遺産
・「夕張炭田関連遺産」として近代化産業遺産に認定されています。
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<写真ー14>末広駅跡。
もう少し早い時期に来た時は、板組み、木組みのホームが残っていたのですが・・・
運転開始直後の急行は通過しておりました。
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<最後の10年間:1965-75年の輸送の実態>
旅客輸送量は減少、単行主体となっていました。特に旅客が野幌ー栗山のみとなった
1971年以降は、ディーゼルカーはキハ201,202,251,254(すべて両運車)の4輌で事足り、
列車交換は南幌のみでおこなわれていました。
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<補遺>平成19(2007)年1月31日、「北海道新聞・朝刊」から
<前半・後半>から時間を同じくしてご覧頂くのに「補遺」も何もないのですが・・・
ほかにタイトルをつけようがなかったので・・・
新聞記事の写真をそのままスキャナーで取り込みました。
元々内燃王国だった関東鉄道の中にあって、振るわなかった、鉾田線「石岡ー鉾田」を
鹿島鉄道として分社化、平成19(2007)年3月一杯でお役御免になる話が北海道新聞に
載っておりましたので、皆様にも知っていただきたく、ここにお出し致しました。
鹿島鉄道キハ741形741号は、、夕鉄時代、昭和28年、2キハ251形251号として
製造されました。
昭和49(1974)年4月関東鉄道に譲渡、さらに昭和51(1976)年1月16日に
「鉾田線キハ714形714」として稼働開始します。
次いで、関東鉄道は業績不振の鉾田線を、昭和54(1979)年、鹿島鉄道として
分社化。キハ714はそのまま居残り、鹿島鉄道廃止の日まで働きました。
実働、夕鉄21年+関東鉄道・鹿島鉄道33年=54年と関東での活躍が長くなっ
ていました。
初期のディーゼル車なので頑丈には作ってありましょうが、経年的に不都合な
ところが出てきましょう。それを、50年以上使えるような基礎づくりをした夕鉄技術陣、
本当に50年以上も使うことにしてしまった、関東鉄道・鹿島鉄道技術陣、日々の整備の
積み重ねのたまものと特筆大書すべき事かと思われます。
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撮影日:<前半>再掲
昭和56(1981)年
先代・野幌駅舎 8月10日
旧・北海鋼機駅舎 9月 7日
上江別駅跡 9月 7日
下の月駅跡 9月 7日
旧・南幌駅舎 8月10日
旧・北長沼駅舎 8月10日
先代・栗山駅舎 8月10日
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<後半>
旧・継立駅舎 昭和56(1981)年9月7日
旧・新二岐駅舎 昭和56(1981)年9月7日
旧・若菜駅舎 昭和56(1981)年9月8日
小田原、先代(初代) 昭和58(1983)年4月21日
琴平、現駅 昭和54(1979)年12月31日
旧・営林署前駅舎 昭和56(1981)年9月7日
鹿ノ谷、現駅(無人化前) 昭和56(1981)年9月7日
末広駅跡 昭和56(1981)年9月7日
旧キハ251形 平成19(2007)年1月31日、「北海道新聞・朝刊」記事抜粋
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参考図書
・鉄道ピクトリアル 関東地方のローカル私鉄特集 1983年6月 Vol33 No6 鉄道図書刊行会
・北海道都市地図、サッポロ区分 ニューエスト 1 エリアマップ 1998年1月 昭文社
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例によって、大幅おっちょこちょいの文章に最後までお付き合いくださいまして
ありがとうございました。
松本、長野、上田と文を書いてきて、地元のことはないがしろかい?と
御先祖様に怒られそうな気がいたしましたので、地理もまずまず知っているユーテツ沿線から
いってみっか、とユーことになりました。
北海道を題材にすると面白い話はたくさんありますが、北海道以外の三島の土地の知名度より
やや低いので書きづらいのが悩みのたねです(自分の筆力のなさを他に転嫁しない!!)
もーめげずに励みますので、今後ともよろしくお願い申し上げます
少しだけ、夕張鉄道、1981夏<前・後半> 了





