皆さん御存知のように、昭和57(1982)年、次第に屋代から長野電鉄への直通客が減少したと理由で、
乗り入れが打ち切られました。
停車駅は、屋代線内は、屋代ー松代ー須坂、以北は当時の「A特急:-(小布施、一部の列車停車)
-信州中野ー湯田中」と同じでありました。
その判断が正しかったかそうでなかったかは別として、それを境にすっかりノンビリ田園ラインに
なってしまった屋代線。その頃から、次第に過疎の波が押し寄せます。
屋代線の利用者のピークは昭和40(1965)年と昭和48(1973)年の330万人、そしてずーーーーっと
時代が下って平成20(2008)年になりますと45.8万人と最盛期の14%になってしまいました(*1)。
今は、「千曲市」の「市代表駅」となった屋代駅ですが、平成の大合併以前、付近は
「更埴・こうしょく市」と申しました。
「更埴?」なにそれ・・・「更科・さらしな」郡+「埴科・はにしな」郡のそれぞれ一部の自治体が合併し
、更埴市が昭和34(1959)年誕生しました。
※更科(ソバ)の特徴は、蕎麦殻を外し、精製度を高め、胚乳内層中心のそば粉(更科粉、一番粉)を
使った、白く高級感のある蕎麦(更科蕎麦)であります。
えー、 サラシナのセツメーではなくてですねー、いくら退屈で平坦な路線自体に「ヤマバ」がなくとも、
沿線に人目を引く「デカ観光地」ですとか、「チビ観光地」で も連続してあるとか・・・フンフン・・
・日本全国そんな都合のいいところなんかマズない・・・そーですね、確かに・・・
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(*1)長野電鉄屋代線の存続、再生に向けて、長野地区公共交通対策会議、布目 裕喜雄 氏
http://www.nunomeyukio.jp/image/100515_yashirosen_houkoku.pdf
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まず屋代駅から行きましょう。
<写真ー14>屋代駅 今とあまり変わりないと思います。
実は横幅が結構あります。
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<写真-15>屋代駅前通り
なんとなくぱっとしませんねー。気のせいだろーって?
次の写真の電車は、発車10分前なのですが、駅に向かって歩いてくる人や、車が見当たらないでしょ?
考えすぎですか??
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<写真ー16>屋代駅構内と1500形1502
屋代駅構内は、片面1線+島式2面2線で、1-3番ホームが「しなの鉄道」、4,5番ホームが「ながでん」用でした。
晩年の写真を拝見すると、4番線の方には柵のようなものが張ってあって、使えるのは⑤番線①トラックだけのようでした。
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写真14-16の撮影日:昭和62(1987)年8月16日
SHOU=CHIKU=BAI=SHOU=CHIKU=BAI=
話は変わりまして松代町の事です。
今は平成の合併事業で長野市の一員となりましたが、当時はまだ、一地方自治体でありました。
<写真ー17>松代駅
屋代ー須坂24.4km中、最大の町の最大の駅は屋代起点8.8kmのところにありました。
最晩年のみ委託駅で、ずーーーーっと電鉄の直営駅でした。
いろいろな点で話題多き土地柄でした。
◇古代の松代
朝鮮式古墳と思われる積石塚、合掌方石室500基以上が集まる国内でも得意な場所とされています。
◇近世の松代
真田氏の一部が、自分たちの血筋を絶やさぬよう、徳川方と、豊臣方に分かれ戦ったて、ある程度大きくなった派閥は御屋敷をもつに至りました。
<写真ー18>旧・真田邸、9代目・真田幸教の母の隠居所

松代藩第9代藩主、真田幸教が、母(貞松院)の住まいとして建てたとされています。
私が訪問した時は、まだ、松代城の発掘・再建作業は全く始っておらず(そんな話が
あることさえ知りませんでした)、この建築物が、唯一100%近いほぼ完全な形で
残されている、城内の遺構と考えられてたようです。昭和56(1981)年、国史跡指定
<写真ー19>松代城趾
松代城は名前も変遷があり、海津城→川中島城→1622年から松代城となりました。
最終的には真田10万石の居城となり、明治の華族法では伯爵に列せら得ました。
松代城は明治初頭に廃城となり、明治6(1873)年の火事なども重なりほとんどの建物を失いましたが、
本丸を中心に石垣や土塁、水堀などの遺構が残り、昭和56(1981)年に国指定史跡に指定されました。
その後、太鼓門や北不明門などが復元され平成18(2006)年、日本の名城100選に選定されています。
松代城は背後を天然の堀である千曲川を控えた堅固な平城で、石垣が本丸だけというのは、
石高に比して小ぶりな城であるといえましょうか。
昭和56(1981)年に国の史跡指定を受け、発掘調査の後、長らく門の復元や石垣・土塁の修復工事が
行なわれていました(とユーことは、私はなにも気付かず、知らず、通り過ぎてしまっていたとゆーこと
なのでした)。
平成16(2004)年、櫓門や石垣復元作業が完了し、見学可能になりましたが、再建物は門と橋ぐらいで、
城の縄張りを見て楽しむものとしては程遠いようです。
しかし、石垣、門などは、他の建物が少ないだけに、修復の完成度は高いと評判をとっております。
他に「松代」と言えば、必ず話題にのぼるのが、「松代大本営」と「松代群発地震」です。
いや、なんとイーますか、ミステリアスな雰囲気漂う一角で・・・
◎松代大本営
太平洋戦争末期末期、日本の国家中枢機能移転のために、松代町などの山中(象山、舞鶴山、
皆神山の3箇所)に掘られた地下坑道跡です。
このうち現在、象山地下壕(ぞうざんちかごう)が一般公開(無料)されています。
よーするに大本営の「疎開」ですネ。サイパン陥落(昭和19年7月)から準備は急ピッチとなったようです。
ではなぜ、松代か?
①飛行場がある(長野飛行場)
②硬い岩盤、10ton爆弾も耐弾性あり
③山に囲まれているその割には、平野部が広く、地下工事をするのには面積充分。
④長野は労働力豊か。
⑤長野県人は人柄が純粋で秘密が守られる。
⑥信州は神州に通ず・・・・日本人らしい発想と愚考いたします・・・
でも実際は、大量の人材と物資がどんどん移動してきましたので、「天皇さんがいつかやってくる」と
地元では公然の秘密になっちゃっていたみたいです。
作業開始日は昭和19年11月11日、延べ労働者数、朝鮮強制労働者数25.4万を含む61万人。
総工費2億円。工事進捗度75%で終戦となりました。
◎松代(群発)地震
松代群発地震(まつしろぐんぱつじしん)は、松代町付近近で昭和40(1965)年8月3日から
約5年半もの間続いた、世界的にも稀な長期間にわたる群発地震でありました。
震源地は大本営候補の一つでもありました皆神山付近。
総地震数は71万1341回。
このうち、有感地震は6万2826回(震度5: 9回、震度4: 48回、以下多数回)であります。
深さ7 km より浅い地震が殆どで群発地震全てのエネルギーは、M6.4に相当しました。
地殻変動が最大であった場所では、この地震活動の前後で約1m隆起X隆起域直径
約10Kmに及びました。また、付近には「松代地震断層」が発見されました。
長期にわたっての、地震の継続については、2,3の有力な説があるようですが、
いまだ、結論が出ていないようです。
◎佐久間象山(ぞうざん・しょうざん)出生の地
長野電鉄・屋代線の松代から屋代方一つ目に「象山口駅・こちらは・ぞうざんぐち駅の読みです。
昭和9(1934)年1面1線の開設で、早くも昭和46(1971)年無人化されてしまいますが、
屋代線廃止の時は1日5人程度の利用客でした。
その佐久間 象山(さくま しょうざん、-ぞうざん)は、江戸時代後期の松代藩士で
兵学者、朱子学者、思想家でありました。「松代三山」のおひとりとかおっしゃるのだそーで。
象山神社の隣が生家で、長野県の史跡に指定されています。
下級武士の出でありましたが経済と、とりわけ数学に興味があったようです。
ペリー来航(1854年)の折、門弟の吉田松陰の密航が漏れたことに連座、伝馬町に入牢、
その後、松代蟄居を言い渡されます。
その後、徳川慶喜に「開国論を説くのですが、「西洋かぶれの危険な奴」と烙印を押され
京都で暗殺されてしまいます、享年54歳。
しかし、彼の実績や、門弟が偉大であったことから暗殺犯は以後殺人商売ををやめてしまった
というエピソードがあります。
彼の門弟たちには勝海舟、橋本佐内、吉田松陰、坂本竜馬、などなど後の日本を担う
人材を多数輩出し、幕末の動乱期に多大な影響を与えました。。
構内写真が撮りたくて、須坂方から(象山口と反対側)とったのですが・・・
上手くとれていません!!
本質的には2面2線の駅で、ホームの右横に2本の側線がありますが、これは駅中心部で途切れて
おりまして、屋代方からの側線はありませんでした意外と手狭な駅構内です。
写真17-20:撮影日 昭和62(1987)年8月16日
SHOU=CHIKU=BAI=SHOU=CHIKU=BA=BAI=SHOU=CHIKU=BAI=
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<写真ー21>・・・で一周してきました。須坂の赤ガエルたちです。

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車の話はまた今度
撮影日:昭和62(1987)年8月16日
すいません。今回で終わる予定でしたが無理でした。
また今度・・・
松本電鉄を見た勢いだけで長野電鉄にも寄りました:昭和62(1987)年8月15-16日③ 了





