もう昨日になっちゃいました:アッツ島玉砕、1943.5.29. | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

残り少ない余生をテキトーにいきていくブログ
◇監修 左上野 老鶴 ◇GM 経田野 横鋤 ◇照明 当代元 蔵志
☆余生を送っている人間が書いている記事ですので、恐縮ですが
 「記事更新頑張りましょう」といったコメントにはお返事できま
  せん。

旧・日本陸軍は、昭和17(1942)年6月に海軍のミッドウェー作戦の陽動作戦として、アッツ島をキスカ島と共に攻略、占領して「熱田島」と改称しました。アッツ島には第7師団(旭川)の穂積部隊約1,000名を配置しましたが、キスカ島に米軍上陸のうわさもあり、先の1000人はそちらに移動してしまいました。

あとがまに米川部隊2,650名が配置されましたが、


1943年になると、アメリカ軍はアッツ島への圧力を強め、時折建設中の飛行場へ空襲や艦砲射撃を加えており、アメリカ軍の上陸は間近と予想されました。


4月18日にアッツ島守備隊司令官として山崎保代大佐が着任しました。


アメリカ軍は昭和18(1943)年5月5日、ロックウェル少将率いる、第5艦隊隷下の戦艦3隻を含む51任務部隊を引き連れてやって参りました。


実際地上戦を行うのは、乗船してまいりました、A・E・ブラウン陸軍少将が指揮する陸軍第7師団1万1000名であります。

天候の回復を待って、12日からの上陸開始となりました。


兵力は2650名 VS 11000名。勝負は始めから見えているようなものでしょーね。

細かい経過をここに書き連ねても、しょーがありませんが、アッツ島守備隊は大健闘しました。


敵の連隊長も1人倒しました。

最後の、山崎司令率いる約300名の兵士による突撃は、相手の陣地を多数抜き去って、おしくも、アメリカ第7師団本部前で力尽きてしまいましたが、最大の混乱と成果を狙った優秀な切り込み計画であったそうです。


再度書かせていただきます。

衆寡敵せずとは申せ、アッツ島では日本軍はよく戦ったと思います。


戦闘期間:5月12日から5月29日(玉砕)

日本軍守備隊の最後:生存/戦死=28/2351


*帝国軍隊では最初の玉砕となりました。