私の高校時代からの疑問で、内容をまともに書くと「フケー罪」とやらで、戦前なら無期懲役くらいになっていたかもしれません。
まー、日本史(古代史)のプロの方、お好きな方からすれば、「オメー、いまさらナーニ言ってんだか」といった中身でしょー。でも自分にとっては40年、暇な時に考えては答えが出なくて、挫折してきた問題ですので・・・(でも、古代史って答えが出ないところで、またおもしょろいのですよ←マケオシミ)。
*詠み手はだれか?
●最後の7文字「今はこぎいでな」の「な」は「勧誘の間投助詞」のはずです。多くの方は詠み手をほとんど額田王にしていますが、ずーーーーっと位が高い人に、「そろそろいこうよ」って「ノリ」にきこえて、納得がいきません。
斉明天皇(594-661年)が詠み手ではありませんか?
*詠み手を斉明天皇にした場合・・・
●この短歌が成立したのが、百済救援の西暦661年1月、斉明天皇が崩御されたのが同年8月。
斉明天皇67歳。いくら古代でもみまかるようなお歳とは考えられません。
重祚(皇極天皇が二代あとの斉明天皇と同一人物)ー孝徳ー斉明)のためお疲れでしたか(斉明天皇の御世の時失政が多かったといわれています)・・・といった御心労か、長旅(諸説ありますが、ニキタツは松山市の外港とみてよさそうです。大和朝廷からは、当時としては、戦の見送りに来ただけだとしても、緊張の船旅だったと思います)の疲れか、元々持病があったか、それとも・・・もしや・・・
「ま、事故など含めて」、重祚の時は、ブレーンに中大兄皇子がいましたので、」御本人が)額田王を含めて、第一線の指揮所にくる必要があったのでしょーか?
見送りだけであれば、それも国の一大事ともなれば、中大兄皇子か兵部省長官でいーと思いませんか?
それとも相次ぐ失政で、律令内閣からもそっぽを向かれていましたか?
*いくさ場に女官は御法度のはずでは?
もっとおかしいと思いましたのは、いくら天皇と雖も戦には女官は御法度なはずだったと思いましたけれど?その辺、どーなんでしょーねー?
そーすると、詠み人は男性ですか?
詠み人知らず?
結果的に答えは空回りばかりして延々出なくて、ドッカの国の国会みたいですね。
どなたか、この辺のこと、ご教示いただけませんでしょうか?
(何もでませんけれど)