さすがに、我慢強い、楠 正成さんも今回だけは、後醍醐天皇陛下に「イラッ」ときていました。
と申しますのは、鎌倉幕府の倒幕クーデター(当時の執権は北条高時さん)が、二度もばれてしまい(正中の変:1324年、元弘の変:1331年)、挙句、自分は笠置山に逃れましたが、翌年見つかり、隠岐の島に配流となりました。
隠岐の島々では、現役の大君がまかり越し遊ばす、ということで、大騒ぎになり、連日連夜、帝に粗相のないよう大歓迎大パーティーが催されたとか・・・
それでも、陛下の鬱々たる御気分は晴れることはありませんでした。クーデターがばれたのは、自分のセキュリティの甘さが原因であることなんかどこへやら・・・
そんな、蒸し暑い或る夜、隠遁所の精霊が、帝の夢枕に立ち、
「南の木の所に立つ武将が貴方様の御味方をしてくれましょう」
とか言って消えたことから、
帝は、
「おぉ、いつか、楠が朕を助けに来てくれるに違いない!!」
と確信すらお持ちになるに至りました。
しばらくしますと、伯耆(鳥取の西半分)の名和長年一派が脱出の手助けに参ります。
「陛下・・・おいたわしや・・・」
「どーして、楠ではないのぢゃ!」
これには名和君でなくともおこりますよ、そりゃ。
「このまま、帰ったって、俺達、痛くもかゆくも・・・」
「コレコレ、朕が悪かった・・・どこぞ、佳きところにつれていって給れ」
「はじめから、そーいってりゃいーんですよ」
さて、後醍醐天皇、楠さんと再会します。
「陛下、どこ、ほっつき歩いておられたんです!」
「そこもとこそ、なぜ、一刻も早く朕を助けに来なんだ!!」
といった会話があったかどうか知りませんが、ないと、文頭につながりませんので、
あったことにしておいてください。
そーこーしているうちに、正成さんの残された時間はドンドンなくなって・・・
一旦九州に敗走していた足利尊氏さんが再起、山陽道を勝ち上がってきました。
「そろそろ白黒つけよーぜ」
正成さんは、後醍醐天皇を囲んだ御前会議の席で、山岳ゲリラ・持久戦を主張します。
しかし宮中の御重役の方々は、戦のエキスパートは当時おいでにならず、
「早々に決着をつけて、帝に忠義の程をみせよ」
とのおおせ。
正成さんはこの瞬間、自分の運命が決まったと悟りました。
宮廷にさからうことなく、わずかな手勢を引き連れ出陣、湊川の戦いで敗死。
時に1336年、正成さん、43歳?の時といわれています。
その後、後醍醐天皇は吉野の山に引きこもり、南北朝時代に入りますが、正成さんの息子・正行(まさつら)さんがこれまた、剛の人で、北朝の刺客・細川顕氏軍、山名時氏軍にそれぞれに大勝します。
これを重視した北朝側は高師直・師泰兄弟に大軍を与え南朝に攻め入りました。
正成さんと似たような状況の中、楠 正行・正時兄弟は北朝軍を「四条畷」で迎撃しましたが、多勢に無勢、最後は兄弟が互いに刺し違えて戦いは終了したと伝えられております。
(四条畷の戦い、1348年。楠 正行、享年23歳)。。
・・・それから時代が下って600年。時は1944年6月。
連合国軍は、フィリピンの島々に押し寄せてきていました。
迎え撃つ帝国軍隊には、もう、戦いの趨勢をひっ繰り返す何物の余力も残っていませんでした。
ただ、ここで、連合国軍に一矢報いれば「講和条件がちびっとよくなるかもね?」と、ここを天王山と見立てて「捷1-4号作戦」を発動しました。
特に、航空機は、当時国内外からかき集めたもの、4000機という残存機から、2000機を選抜し、ここフィリピン戦線につぎ込みました。
多くの日本機の垂直尾翼には、「菊水」のマークが白く描かれていました。
そしてそれは、緑の機体から浮き上がって、特に陽光に輝くとき一層のコントラストをひきだしていました。
フィリピンの兵隊さんたちはお国のため、昔々、どこまでも帝に忠実であった「楠家の家紋」を機体に描くことによって自らを鼓舞させていたのでしょう。
とーーーーい高みから・・・
「わしらは、こんなつもりで陛下のために戦っていたのではない!」
「父上。それは、いま仰せになっても詮なきこと・・・」
若武者二人とその父親らしき武将が、戦構えのままずーっと悲しそうな顔をして、いつまでも下界を見守っているのでした・・・
