遠州森町あたり | 余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

余生庵 カラスの晴耕雨・読ぶろく…クンセイが肴

残り少ない余生をテキトーにいきていくブログ
◇監修 左上野 老鶴 ◇GM 経田野 横鋤 ◇照明 当代元 蔵志
☆余生を送っている人間が書いている記事ですので、恐縮ですが
 「記事更新頑張りましょう」といったコメントにはお返事できま
  せん。

「すし食いねェ~」 でおなじみ、「森の石松」君の出身地といわれているところであります。



もー、ずーっと以前、TVコマーシャルか何かで、「石松」君が、渡し船で、乗り合わせた客人に「握り寿司」を勧めていましたが、大井川や箱根の関所以西は、当時(江戸末期)まで関西文化圏でありました。


ですから、彼が差し出したのは、「押し寿司」のはずでした。

ただ、あのべらんめー口調ですと、出てくるのは、やはり、江戸前の握りの方が似合っていると、TVのプロデューサーの方もお考えだったのでしょーね。


ところが・・・文句をつけてばかりで、もーしわけないのですが、当時の江戸前の握りというのは、1個が現在のオニギリくらいあって、2-3個も食べれば「ゲップ」モノでした。

しかし、ここでもそれをチュージツに再現していたら「なんだ、あのCM?!」ということになりかねません。


200年も昔の世界を現代流にアレンジするのはいかに難しいかとゆーお話ですが、コマーシャルだからこそ可能なのでしょー。

これをドコゾの大河ドラマなどでやったとしたら、そこの放送局の電話は一日中鳴りっぱなしでしょーね。


さて、「石松」君の親分であります、「清水の次郎長」さんも、若い世代の方でも名前くらいはお聞きおよびでしょう。

「むか~しのやくざの大親分」というイメージですが、1820-1893(明治26)年とびっくりする程大昔の方ではありません。


船持ち船頭・高木家の次男に生まれ、米穀商・山本家に養子に行きました。本名は「長五郎・ちょうごろう」さんです。

注目すべきは、ご生家、養子先とも、この時代に名字が許されていたお家柄だったということであります。


若いころの次郎長さんは、1843年、喧嘩から人を斬ってしまい、無宿人(人別帖から名前が消され、住所不定になることですが、現代の民法と違い、どこの戸籍台帳にも名前が載ることはありませんでした)となるなど無茶ぶりを発揮します。


しかし、そのころの経験がものを言ったのでしょーか、戊辰戦争、明治元(1868)年、旧・幕臣の戦死者を埋葬中、新政府軍にとがめられたところ「死者に官軍も賊軍もなし」とつっぱねたり、清水の発展には茶を増産すべしと私財で清水港を整備したり、囚人を使って、富士のすそ野に新田開発を行ったり、ときには度胸、ときには統率力を発揮していたようです。


ワルもやりましたけれど、その後の功績がでかい「大親分」でありました。


そーそー、忘れていましたけれど、天竜浜名湖鉄道(旧・国鉄二股線)の掛川寄りに「遠州森」駅はありますが、町の名前は「森町」です。

また、大分県の久大本線に「豊後森」駅がありますが、玖珠町(森町などと昭和30[1955]年対等合併、新・拡大玖珠町となる)の中心駅の一つで昭和30年までは「森町」でした。


歴史は、豊後森町が一番古いのですが、鉄道開通は、北海道の、函館線・森駅(自治体も森町)が3駅の中で一番早かったため、他の2駅は自治体の名前が唯の「森町」であっても、北海道の森町とは、何らかの区別をが付く駅名にしなければなりません・・・頭に旧国名をつける・豊後森、頭に「新」「方角」をつける・・・


最後になりましたが、旧・二股線は、日本が戦争に負けそうになって、東海地方が艦砲射撃にさらされ

東海道線が壊滅した時のバイパス路線となるはずの路線でした。


だから、せんそーするなっていってるっしょ!!