てなわけで(何が?)、なんとかいろいろ工夫すれば、中国・高松地方から京まで、約200kmを先発隊が間をとりながら走り抜ければ、「山崎(あの某ウィスキー会社の発症の地)」まで6月6日から12日までに3-4万人の秀吉軍でもやってくることができそうなことが証明されています。
さて、明智軍13000対秀吉軍30000と言われるこの対決ですが、6/7の記事で御説明した通り、実戦部隊は、全体の7割ですので、実際の戦闘員は約9000対20000の戦いということになります。
頭脳明晰な明智さんのことですから、「まともにいったらやられてまう。どーすれば勝てるやろかー」くらいはすぐにでも計算がはじまります。
そこで彼は、平坦地が狭隘になる「山崎」で両軍がぶつかるように、自軍を布陣させました。
一方の、秀吉さん側は、攻め始めこそ、高槻付近でしたので、平野部の幅が5kmほどもあり、行軍に余裕がありましょうが、それにつづく、明智さん本陣へ至る水無瀬から山崎までは長さ2kmにわたって1.1kmの幅しかありまん。
秀吉さんの進路を、今の地理で申し上げますと、一番北のてっぺんにJR山崎ー(1.1km南東へ)-京阪・橋本ー(2.5km南西)-京阪・椎葉ー(5.4km西南西へ)-JR高槻ー(5.5km北東へ)-JR水無瀬ー(2km北北東)-JR山崎にもどってくる、足袋を横から見たのような先細りの地形(図がヘタクソでスイマセン)を進まなければならなかったのです。
「山崎に近づけばさすがの、大群も2列縦隊で行進するのが関の山だろう」と、明智さんはここでみょーに安心してしまいます。実は椎葉ー橋本間には東側に「八幡神社」をいただく小高い丘がありますが、これを迂回すれば、「椎葉ー山崎」直進3.4kmのところ9kmの遠回りになるものの、騎馬武者であれば20分もあれば主戦場まで到達できるでしょう。意外なほど、応援部隊は「山崎」に早く駆け付けられるのです。(記録での別働隊は、秀吉さん主力の左側のかなり狭いところを通って進軍しています)。
では、実際の戦いはどうでしたかと申しますと、明智さんの先鋒は選りすぐりの2人の侍大将が受け持っておりましたが、秀吉さんも、そこは読んでいて、こちらも、腕自慢の侍大将二人に先鋒を託します。
緒戦は、力が均衡、戦線が膠着していましたが、このもたつきの間、余力が大きかった秀吉さんの別働隊が、明智さんの側面2か所をついて、その時点で勝負ありました。
よーするに、明智さんのほうでも、狭隘地に近すぎる場所に本陣を選んだばかりに、自軍に有利な条件を生かしきれず、広い横陣形を張らせるなどといったことが不可能で、「鶴翼の陣」で秀吉軍を自陣深く呼びこんで包囲殲滅するでもなし、斜陣形をとって、後から別働隊が出てきて挟撃するでもなし・・・
これは明智さんの作戦ミスですね、
先の八幡神社は独立峰の頂上で、川の合流地点(木津川と宇治川)近くの三角州にあって、攻め手は川が流れていない、三角形の残りの一辺からだけが、攻めるのに容易そうですので、シロート考えでは、ここも、布陣としてはよかったのではないかと思われました。
あとですねー、秀吉さんに大ラッキーだったことは、他の織田さんの有力大名たちは、地元で係争中だったりして、一番織田さんの敵を打ちやすいと申しますか、動きやすい条件のヒトだったらしいのです。
まー、人生ツイテイル人はどこまでもついているというお話でした。
え?明智さんのその後ですか??
江戸幕府で天海僧正になり、それから、日光東照宮の近くに勝手に「明智平」という地名を作って、
さらに大正15(1912)年、「馬返・明智平」間のケーブルカーを「日光登山鉄道」という会社を興して開通させたらしいですよ(何歳になるの?)・・・384歳??・・・
