(前回からの続き)

 かつては「鬼の貫太郎」と呼ばれた海軍軍人の鈴木貫太郎は、昭和20年4月、敗色の迫るなか、首相として組閣の大命を下される。それは太平洋戦争を終わらせるためだった……ちょっとハードな感じで書いてみました。

 「最後の内閣を任せられる人物」として首相候補に名前が挙がっているということは、貫太郎自身も漏れ聞いてはいた。だが、この時すでに齢78。耳も遠かったという。本人はもちろん、家族も大反対だった。

 

 ところが4月5日の午後十時過ぎ、鈴木家に昭和天皇からお召しがあった。参内した貫太郎を待っていたのは、天皇からの直接の懇願であった。 

 貫太郎はそれまで軍人は政治にかかわるべきではないとの信念で生きてきており、天皇直々の願いであっても即答はできなかった。だが昭和天皇は、異例の言葉を口にする。

 

「頼むから、どうか、まげて承知してもらいたい」

 

 通常、天皇は憲法の示すとおり、新しい首相には組閣を命ず、というスタンスで臨む。だが、この時は「頼む」と言ったという。「もう他に人はいない」とも。

 

 

 いったん御前から下がり、帰宅した貫太郎は天皇の願いを受け入れる決心をする。道子さんの父、つまり貫太郎の息子一は農商省を辞して父の秘書となる。

 

 首相になった貫太郎はソ連との和平工作を画策する。7月には米英中の三国政府首脳の連名でポツダム宣言が出されたが、貫太郎は回答をせず“黙殺”した。道子氏はこれを「ソ連との和平の回答を待っていた」と書く。

 

 8月6日、広島に原子爆弾が投下された。9日には秘密裏に交渉していたソ連の参戦という衝撃的な報がもたらされる。さらに同日午後11時半、宮中にてポツダム宣言受諾の閣議が行われている最中、長崎にも原爆が落とされたとの知らせが届く。

 このあと、昭和天皇の「聖断」が示され、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏することになる。その影には徹底抗戦を口にしながらも、戦争終結の機会をうかがう鈴木貫太郎首相の存在があったことを現在はもちろん、当時の日本人も知らなかった。

 

 

 昭和天皇が終戦詔書を朗読した「玉音放送」が流れたのは1945年8月15日正午。しかしその時すでに、前日14日に内閣がポツダム宣言を受諾したと聞いた陸軍の若手将校たちのあいだで反乱が起こっていた。

 貫太郎にもクーデター軍人の魔の手は迫っていた。

 

 玉音放送が流れ、上空に敵機の姿のない静かな15日の午後、「敗戦の張本人」たる貫太郎を亡き者にしようと、まず首相官邸が襲われた。だが、貫太郎はすでに私邸へ戻っていた。

 貫太郎の居場所を軍人たちに告げたのは、官邸を警備していた警官だった。敗戦の原因を首相だと感じ、“天誅”にあえばよいと考えていたのだろう。

 

 自宅にいた貫太郎の元に「軍人がそちらへ向かっている」との急報が入る。そこで貫太郎は間一髪で脱出、腹を立てた首謀者の陸軍大尉は家に火をつけた。鈴木家は庭にあった4本のシュロの木を残し、完全に焼け落ちた。

 近隣の人々は消火もせず、家が焼けるままにしていたという。殺気だった軍人にさからえなかったのかもしれない。だが「ここにも敗戦を受け入れられない人たちがいた」と道子氏は書いている。

 

 このクーデーターを詳細にドキュメントしたのが、半藤一利の『日本のいちばん長い日』だ。こういう全編に緊迫感が流れる本は、今はちょっと読むのがつらい。気力のある年齢に読んでおいてよかったと思う。

 

 7月17日、鈴木内閣総辞職。この内閣は終戦にこぎ着けるために作られたものだ。それが達成された今、貫太郎が職を辞すのは当然のことだった。

 昭和天皇は15日、玉音放送の後に行われた閣議の休憩時間に参内した際、貫太郎に「本当によくやってくれたね」と2回繰り返したという。

 

 鈴木貫太郎は、終戦から3年後の1948年4月17日に死去した。享年80。

 

 前年の夏から体調を崩していたが、年が明けた2月ごろから寝付き、4月16日に危篤状態に陥った。

 しきりにうわごとを口にしていたが、突然はっきりと「永遠の平和」「永遠の平和」と二度言って意識がなくなったという。

 

 この鈴木道子氏の書かれた『祖父・鈴木貫太郎 孫娘が見た、終戦首相の素顔』は、基本的には半藤一利の『聖断』『日本の一番長い日』さらに貫太郎の自伝と同じ内容なのだが、貫太郎の身内の視点が加わっていて、より人間的な魅力が伝わる。何より「鈴木貫太郎入門書」として最適なので、いちど手にとって読んでほしい。

 

 

 ちなみに、終戦の日、鈴木家を焼いた陸軍大尉は戦後、日本を訪れるアジア系の人々を助ける社会運動家となった。自分の行為をわびるために鈴木家を訪れ、一氏と親交を結ぶようになったそうだ。