本年よりアニメ放送も開始された九井諒子のマンガ『ダンジョン飯』(KADOKAWA)。連載が始まったのは2014年。2巻からは新刊が出るたびにベストセラーになっていたが、去年の暮れ、ついに完結した。全14巻。

 私は1巻の書店POPと表紙に惹かれて購入して以来の読者である。

 

 可愛い絵柄に魅力的なキャラクター。好感度の高いギャグ。おそらく「迷宮の冒険者は持参の食料がなくなったらどうするのか」あたりから着想を得た(個人の推測です)、迷宮の魔物を食ながら最強の竜を倒すという秀逸なストーリー。しかも竜を倒してめでたしめでたし、とならなかったのがすごい。

 

 このたび最後の3巻(12巻〜)をまとめて読み、心の底でうすうす感じていたある事実に気づいた。

 

 

 『ダンジョン飯』にはえぐいシーンが結構ある。

 そもそも物語の舞台である迷宮が、「たとえ死んでもしかるべき術によって蘇ることができる」という設定であるため、読者は「死」に対して油断している。登場人物たちがどんなえぐい死に方をしても(そのシーンすら可愛かったりギャグであったりする)、どうせ蘇るのだからと“安心して”しまう。

 

 物語のクライマックスの一つ、ライオスが翼獅子と最終対決の際には、さすがに九井諒子の可愛い絵でも抑えきれない、えぐさが展開する。そのショッキングさに気づいたとき、なぜか妙にうろたえたのを覚えている。

 

 エピソードにもかなりえぐいものがある。

 たとえば主要人物の一人・センシは、かわいがっていた魔物に襲われ、死闘のあとその肉を食べる。若き日には「ウミガメのスープ」(知らない人は調べてください)ばりのエピソードもある。主人公ライオスは竜を倒すために片足を失う。迷宮の創造主たる翼獅子は、かつて神とあがめ奉られた際に人身御供を喰らっていたりする。

 

 だが、私たちは可愛い絵柄とギャグに気を取られてそのえぐさに気づかない。

 

 

 『ダンジョン飯』の個人的な白眉は、13巻・翼獅子のモノローグ回だ。読みながら、かつて宮崎駿の『風の谷のナウシカ』の結末が「ニーチェのようだ」と評されていたのを思いだした。

 

 上に書いたように、もともとブラックがかった傾向のある九井諒子だが、迷宮で魔物を食べる主人公たちを描き続けながら、この「食べるという欲望」への思索をここまで深めていったのだ。

 

 もし、この物語をリアリズム優先で、ダークファンタジーのように描いたとしたら、メッセージはもっとわかりやすかっただろう(そしてもっと陰惨だっただろう)。そうでなかったところに『ダンジョン飯』のすごさがある。

 

 

 

 個人的な『ダンジョン飯』白眉の13巻。ただし、ここから読むのはおすすめしません(笑)