日本を代表する数学者、岡潔(1901〜1978)のエッセイ「春宵十話」を読んだ。初版は1963年で、近年復刊されている。

 

 岡は「数学なんてやって、人類の何の利益になるのか」と聞かれ、「スミレはスミレのように咲けばよいのであって、それが春の野にどのような影響があろうが、スミレにはあずかり知らぬところだ」と答えた。

 文は人なり。この本は基本的に上記のスタンスで綴られている。

 

 

 その中で引っかかった文章がある。

 「女性の顔は大変なスピードで変化している」というものだ。何でも、戦前の女学校を出た人と戦後に出た人では顔つきが違うというのである。

 

 この本は上にも書いたように戦後18年経った1963年に書かれている。論の流れとして、自立してきりりと引き締まった顔にでもなってきたかと思うのではないか。だが、よく読むと

 

   人間の顔に動物性が大きく入り込んできているという感じで

   ある。

 

とある。ちょっと不穏な雰囲気がただよってきた。

 

 では、岡の言う動物性とは何だろう。はっきりと書いてはいないが、ある文脈で「闘争性、残忍性」という言葉と共に語られている。また、「個人の幸福は、つまるところは動物性の満足に他ならない」とも書く。何だか見えてくるものがある。

 

 だが別のエッセイでは、二十代の女性の顔は戦後十年で「新教育型の顔がちゃんとでき上がっている」とある。「ちゃんと」とあるのでおそらくほめているのだろうが、これは女性が「情緒の中心を通す」からだという。それは幼児が母親の表情をそのまままねて自分のものとするのと同じであるという。

 

 岡は、日本人は幽遠の時代から美しい情緒の流れを保ってきた民族だとする。しかし、その日本の情緒は、敗戦後の教育でどんどん失われていく。岡はそれをもっとも憂う。動物性と情緒は対極にある言葉であるらしい。

  

 

 と、電車の中でこの本を読んでいたところ、電車が止まって、それまで空いていた両隣の座席に、どちらも二十代らしき女性が座った。

 一人はずっとスマホの画面を忙しく切り替えている。もう一人は脇目もふらず化粧をしている。

 

 さて、今、岡潔がこの二人を見たら、何と表現するだろう。

 

 化粧の方がアイシャドウからはじめ、マスカラまでたどり着いたとき、私の降車駅に着いた。好奇心から、ちらりとその女性を見てみた。もしかしたらまだ二十歳を超えていないのではないかという幼い顔をしていたので驚いた。

 

 さらに、あれだけ時間と手間を掛けたと思えない、普通の顔に見えたのだが、これはそれだけ化粧技術が高いということなのかもしれない(まあ、少なくとも私より技術は高いであろう)。

 

 

 『春宵十話』を読んで訪ねてきた学生と接した岡は、今の学生は非常におごりたかぶっていると書く。そしてこう続ける。

 

   謙虚でなければ自分より高い水準ものは決してわからない。

   せいぜい同じ水準か、多分それより下のものしかわからない。   

   それは教育の根本原理の一つである。(「一番心配なこと」)

 

「春宵十話」岡潔 角川ソフィア文庫