千葉敦子。今、どれだけの人がこの名を覚えているだろう。

 

 1940(昭和15)年生まれ。学習院大学を卒業後、東京新聞の経済記者となり、バーバード大に留学したのち独立、英文記事のフリーランスジャーナリストになる。『アジア・ストリート・ジャーナル』『フォーブス』など一流雑誌に寄稿。しかし1980年に乳がんになった。40歳の時だった。

 

 乳がんを発見してから入院、手術、そして退院後3週間で通常の生活に戻るまでを書いた『乳ガンなんかに負けられない』は、がんになったら家族は本人に告げずにいた当時の日本では、センセーショナルな本だった。何といっても口絵に手術前の胸、つまり上半身のヌード写真を載せているのだ。明治大正生まれの人がまだたくさんいた当時、人々の度肝を抜いたにちがいない。

 

 その後、一年後にこれまた当時としては珍しかった乳房再建手術を受け、『私の乳房再建』を上梓。「片方の乳房を切除するとバランス感覚に違和感がある」「乳房がない方の胸が寒い」という記述がリアルだ。

 最初の手術のときの診断は初期で、病理検査でも再発の可能性は低いといわれていたが、二年半後に再発。千葉敦子は自分の死がそれほど遠くないと考えはじめる。

 放射線治療を受けたのち、1983年に東京からずっと暮らしたいと考えていたニューヨークへ転居する。住居と仕事は見切り発車だった。不治の病を得たときにこそ行動する‒‒千葉敦子の本質がここにもあらわれている。

 

 その著作を読み返すと、今でも本当にアグレッシブな人だと思う。三十代で自分で会社を経営していたときに周囲の人間に体力がなく、すぐに音を上げるので驚いたというエピソードがあるが、昭和の「猛烈」時代を駆け抜けた日本人の一人だといえるだろう。

 

 冷徹な知性と無駄のない文章。友人と話していて、「“自分はすごい”オーラがすごくて、好きじゃない」といっていたことを思い出す。千葉敦子の本を読んでいた人も、「こんな女性が日本にもいるんだ」と“絶賛“する人と「エリート臭い」と思った人に分かれていたのではないだろうか。

 

 私はどちらかというと前者だったが、しばらくたって著書を読み返したとき、上記の「体力がない」下りを読んで、こんな人がトップにいたらかなわないなと思った覚えがある。「ついてこれない者はこなくて結構」という人だったような気がした。

 パソコンとインターネット、SNSなどが発達した現在に千葉敦子が存命だったら……ふとそんなことを考える。だが「共存」「共鳴」が時代のムードとなりつつある現在、この人はどう生きたかと思うこともある。

 

 

 ニューヨークで暮らし始めて半年、がんが再々発する。過酷な抗がん剤治療を受けながら千葉敦子は仕事を続ける。嗅覚と声を失いつつも本を読み、アメリカの情勢について原稿を書き、美術展を観に行く。

 私は千葉敦子の記事を通して、抗ガン治療の厳しさからアメリカの医療費が高額なこと(裏を返せば日本の「国民皆保険制度」の素晴らしさ)まで、いろいろなことを知った。

 

 朝日ジャーナルで連載した『「死への準備」日記』では、87年7月7日に「体調悪化し、原稿書けなくなりました」と発信したが、これが絶筆となった。二日後の7月9日に死去。

 

 

 没後34年の2021年、その著書を読み返すと、今ではまさかそんなことがと思うような事がらと、残念ながら未だ変わっていない事がらがある。千葉敦子は30年以上も前に、本質的なことに疑問と告発を発し続けていたまさにジャーナリストであった。

 

 没後の印税はアジアのジャーナリストのための基金とすると千葉敦子は書いていた。

 Amazonで「千葉敦子」を検索してみると、辛うじて「昨日と違う今日を生きる」だけがKindleで読めるが、あとは絶版のようだ。