サド侯爵の生涯 (中公文庫)/澁澤 龍彦
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SMAPの草なぎ剛君が突如自宅に訪問し


地デジ化すんでますか?


などと聞かれたとき、僕は


なんで?


と答えたいのであります。


僕はテレビが嫌いなのです。


民主の支持率が低下しては政治の無能を訴えているわけですが、政治家をあんなふうに映せば、誰がみてもただのオッサンにしか見えない。

慎重に言葉を選びインタビューに答えても、国民が勘違いするような言葉だけが抽出され、映像をぶった切っては繋ぎ合わせ、さも「無責任」である発言であるように見せかける。


煽られた国民もまた、すぐに感化しては、まんまとテレビの挑発に乗っては目の色を変えて非難する。


放送倫理とは笑わせたものだ。自国の知的水準を下げることばかりやって何が楽しいのだろうか。どこにでもいるようなガキをキラキラと輝かせ、国を背負う人間を矮小化する。テレビは伸縮自在のパンドラの箱なのである。


某法律番組などは愚劣極まりなく、番組開始から40分べしゃりつづけ、残り10分程になったときようやく法律の話が始まる。なるほど、あれだけ雑談が続けば、法律相談もろくに出来ず「行列ができる」のも無理は無い。


テレビなど消せばいい。1億3千万人が指一本でできる「無血革命」を実行し、金の流動が狂った日本の「動脈硬化」の改善を図るべく読書を推奨します。


そんな僕が今読んでいるのは、先日ゴミ捨て場から拾ってきたプレイボーイであり、ヌードのグラビアを凝視しては


これも革命の一環である


と、悦に入っているのであります。



さて、エロ本ついでに読みふけていたのは、澁澤龍彦「サド侯爵の生涯」でした。


ご存知「サディスト」の語源となった男、異常性癖を持つ「マルキ・ド・サド」についての詳細が記された本。これは読み物として単純に面白かった。鞭で女を打つことに快感を得るというのは、ドMの僕には理解できないが、ある一つの性的消化の手段としてはサドに共感してしまうこともたびたびありました。


そもそもサドは、それほど極悪人ではない。人一人殺してはいないし(怪我はさせているが)女性に送った手紙は、悔し紛れの罵倒から、弁解までと「人間」らしさが垣間見える。


サドの言葉はどうも心に響く。それが、何からくるのかはわからないが、狂気の淵に妙なやさしさを感じざるを得ない。著者の澁澤龍彦もまた、彼を「エロティシズムを詩にまで高めた史上最初の文学者」と語っている。


この本を読むと、サドという一人の人間を通じて、同時に「フランス革命」という時代の背景も楽しめる。



★★★★★★★










最強伝説黒沢 1 (ビッグコミックス)/福本 伸行
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ヒミズ 1 (ヤンマガKC)/古谷 実
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生島ヒロシ


いや


水嶋ヒロが小説を書き受賞したとの話に、僕はあまり関心をもてなかった。


近年は麒麟の田村やインパルスの板倉、劇団ひとり、さらには爆笑問題の太田が小説を書くといった、いわゆるタレントの創作活動が目立つ。


当然彼らは、それなりに名の知れた芸人である。本の出版に至っては、世に才能を示すといったスケベ心ではなく、芸能活動の一環として、ファンサービスにおける実験的なものであると認識しても間違いないだろう。(読み物としての水準ははっきり言って低い)


だが、水嶋においては明らかに異なるのである。彼は芸名を伏せた。本名は忘れたが、彼は一創作者としてのスタート(表向き)を切り、新人賞を受賞した。


この受賞が商法戦略的な「大人の事情」であるかは大した問題ではない。

作品に価値があるかないかを問いたいのである。


若手二枚目俳優、おまけに歌姫を妻にもつ彼が他の創作者と同等の条件で作品を提示するということ自体がまず不可能なのであり、たとえ名を伏せようともその事実が明るみとなることは、本人も十分わかっていたはずである。


仮に彼の書いた作品が文学として優れていたとしても、世間はあくまで、それを二次的な結果として捉えることになる。つまりは、世間は「彼」そのものに興味があるわけで「彼の思考」には興味を示さない。水嶋の本がすばらしいと感じても、それは「すでに存在していた俳優水嶋」に対する賞賛であり、作品に価値を示すことにはならないのです。


多くの創作者が作品で示してきた自身のアイデンティティに対して、彼の場合はアイデンティティがすでに作品を凌駕しているのである。彼がイケメン俳優としての地位を捨ててでもl、真に「創作」というジャンルに没頭したいというのであれば、この先10作20作と世に送り出すことを続けるしかない。ここで世間の騒ぎに嫌気がさし、筆を投げ出すようであれば、「金と時間をもてあましたガキの道楽」で終わることとなる。それでは若槻千夏の放浪と大して変わりはない。


水嶋ヒロの価値が問われるのは、今回の受賞作ではない。この先の彼の生き様にある。頭を抱え、葛藤し、尚もそれを追い続けることへの矛盾と戦い続けたその時、彼の著作は自ずと僕の本棚に並びはじめるであろう。



                     ☆



さて、水嶋氏の話に触れた理由ですが、現代は実にさまざまな方々が本を書いているということを言いたかったわけであります。今回は読書日記というより願望です。


僕が小説を書いてもらいたいと思っている人間、その二人が「福本伸行」と「古谷実」です。周知の通り彼ら二人はともに漫画家です。


冒頭で挙げた「最強伝説黒沢」と「ヒミズ」。この二作はともに共通のテーマがあります。



持たざる者はどう生きるべきか


ということです。例えば福本氏の「最強伝説黒沢」は、何の取柄もない中年男性の話です。そしてこういう人間は当たり前のことですが、どこにでもいます。彼らが何らかの飛躍を望んだとしたら、どのような答えがあるのでしょうか?本屋に並んでいる自己啓発本などには、その答えは一切書かれていません。大半が若い連中に、それも平均的な家庭で育った大卒のサラリーマンへ向けられた言葉です。例えば一般企業に勤める年収400万の若者が、どうすれば更に上へ行けるのか?などといった馬鹿丸出しの本ばかりなのです。そんな恵まれた人間など放っておいても出世する奴はするし、独立したい奴は勝手に独立するでしょう。


世の中には、年収200万以下の高卒中卒独身、非正規社員の40代という人間もザラにいるのです。彼らが人生を逆転させるには、相当な努力や運が必要なのは誰が考えても明白です。本屋に置かれた自己啓発本には、そんなことは一切書かれてはいないのです。完全に無視し、切り捨てられているといっても過言ではないでしょう。福本氏は、そういった「切り捨てられた人間」への答えを示そうとしたのではないでしょうか。

「最強伝説黒沢」は一見ギャグ漫画とも思われるような描写が目立ちますが、その滑稽さこそが「人間」そのものであり、僕は初めてこれを読んだとき、福本氏はだいぶ前からこういうものを描きたかったんじゃないかという気がしてならないのであります。福本氏の漫画は主にギャンブルですが、実際は「ギャンブルを媒介した人間」の漫画です。彼は一貫して「人間」を描き続ける。福本氏の漫画を読むと、ギャンブルは、人間の本性が明るみとなる行為としての「材料」に過ぎないような感じがします。彼が真に描きたいのは「人間」であり、それを表現するのに「ギャンブル」が都合が良かったのではないかと思われます。


一方「古谷実」は、稲中卓球部で有名な漫画家ですが、彼は突如作風を変え、ギャグ漫画からは完全に離脱したストーリーを描き続けています。先に挙げた「ヒミズ」は父を殺した貧しい少年の放浪記で、彼は世界と自分の距離を痛烈に感じながら苦しみ続けます。古谷氏もまた「持たざる者」への執着を垣間見せる。ほとんど絶望的といってもいいような出自の人間は何を持って救われるのか、ということを問います。


この二作の漫画は、ともに主人公の「死」で幕を閉じます(実際は死んだかは定かではない)。


中でも古谷氏の描く漫画は凄まじく、「ヒミズ」以降も現代における「日陰」の人間を軸とするテーマに徹している。この作風を好ましくないと考えるファンも少なくないとは思いますが、僕はむしろ「稲中」以降の古谷氏を高く評価しています。


両者が抱えているテーマは、やはり「アウトサイダー」であり、歴史的にも多くの文学者が問題としたジャンルです。僕がこの二人に小説を書いてもらいたいと思う理由は、「アウトサイダー」の追求には、漫画では表現の制限が厳しいということ、連載という形では初期段階のプロットに大きなズレが生じることにあります。

いわゆる「アウトサイダー文学」を読みたければ、ドストエフスキー・アルベールカミュといった海外作家でも読めばいいだろう、などと思われるかもしれませんが、海外の思想はまず「神」「宗教」が大きな問題となります。

「宗教無き国」である「日本」そして「現代」が舞台であるものが読みたいのです。


福本氏、古谷氏の漫画は共にすばらしく、漫画でなければできないことをしっかりやっているわけでありますが、僕は彼らの更に深い所、まだ秘めていると思われる「世界に対する疑念、憎しみ」に興味があるのです。そういった闇の部分を予感させた作品が「最強伝説黒沢」と「ヒミズ」です。




















無情の世界/阿部 和重
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最近髪を伸ばしているのです。目標のセミロン毛になるまではあと三ヶ月を要すると思いますが、それまで耐えられるかが僕の課題です。


髪が長いと面倒なことが多い。朝会社へ行く前には寝癖をなおさなければならないし、シャンプーの減りも早くなる。それでも伸ばすのです。意味はありません。


髪を伸ばしたところで女性にモテるかというと、その逆であり、大抵の女性は「短いほうがいいよぉ~」などと抜かすのは終始の事実であるわけです。

ですが、この言動には何の根拠もなく、別に僕が短髪にしたからと言ってその女性が僕と一夜を共にしてくれるはずもなく、無責任極まりない指摘にすぎないのであります。


男の髪が短いほうがいいなどというコモンセンスは、彼女らにとって「男の長髪は見苦しい」というわけらしいのですが、それでも人気のある男性タレントはやっぱり長髪が多い。


つまりはこういうことです。


凡人が気取ってんじゃねえよ


容姿が抜群に整っていない男は、おとなしく頭を丸め、なるべく目立たず隅っこで生きてください。ということなのです。髪を伸ばすと目障りとなり、短くすると自然の一部に溶け込んでしまう。


これは、毎日食うなら米が良い的なことに過ぎず、毎日見る男性ならできるだけ胸焼けしない風貌で視界に居てくださいということです。


断る



女にモテたい男は、流行の髪にする。企業にモテたい男は年配者に好感を持たれる髪にする。

髪はそいつの「俗物性」を物語っているのです。


僕は20代前半のこと、何故か筋肉少女帯の「大槻ケンヂ」と同じ頭にしたいと思い、美容室に行ったところ


「絶対やめたほうがいいですよ」


と言われ、別の髪型を薦められ、苦労して伸ばした髪を切り落としたことがある。

その結果として周りの人々から得た言葉は「あっ、いいじゃん」程度の常套句だった。結局僕は自分を通すことができなかったわけで、その顛末が僕を「凡人」に仕立て上げたのです。


誰がなんと言おうと伸ばすヤツは伸ばすのです。偉人にロン毛が多いのは彼ら強固な自我を貫けることを示しているのに他ならない。


そんな髪をカチューシャで掻き揚げながら、読書日記に入りたいと思います。


ここ最近、僕を魅了し続ける阿部和重はやはり面白い。「無情の世界」は三本の独立した短編集です。


中でも気に入ったのは三本目の




鏖(みなごろし)


なんと素敵なタイトルでありましょうか。この漢字を知ったのは僕が高校のころに読んだ漫画「銀と金」で、一族を殺害しようと試みるある男が壁にこの文字を書いたシーンを見たことがきっかけです。以来僕は学校の机にと狂ったように書きこんでいました。


阿部和重の小説は僕の年代にはかなり楽しめるでしょう。「ぶち殺す」「チンカス野郎」「死ね」などといった若者言葉を容赦なく交わしつつ展開する、リアルな衝突。古典的な要素はただ退屈だと言わんばかりに、無駄なものは一切取っ払ったクリアな文章は一気に読み通せる。本来彼はもっと文学的な一面も備えているのですが、今回の「鏖」のように人間の憎悪を前面に出した作品では、これでもかといわんばかりの自己中心的な心情を繊細に描く。暴力的な衝動も単なる発狂者にとどまらせず、理性との葛藤を上手く使い分ける手法はさすがといったところです。ただこの作品、やや破綻している箇所も見受けられるのですが、展開のスムーズさが全体をカバーしており、読み通したあとの爽快さは文句なしでしょう。


僕はアマゾンで阿部和重の本を大量購入しました。現在彼の最大の長編「シンセミア」を読んでいます。この作品の感想も近々お話することになると思います。



★★★★★★★★