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生島ヒロシ
いや
水嶋ヒロが小説を書き受賞したとの話に、僕はあまり関心をもてなかった。
近年は麒麟の田村やインパルスの板倉、劇団ひとり、さらには爆笑問題の太田が小説を書くといった、いわゆるタレントの創作活動が目立つ。
当然彼らは、それなりに名の知れた芸人である。本の出版に至っては、世に才能を示すといったスケベ心ではなく、芸能活動の一環として、ファンサービスにおける実験的なものであると認識しても間違いないだろう。(読み物としての水準ははっきり言って低い)
だが、水嶋においては明らかに異なるのである。彼は芸名を伏せた。本名は忘れたが、彼は一創作者としてのスタート(表向き)を切り、新人賞を受賞した。
この受賞が商法戦略的な「大人の事情」であるかは大した問題ではない。
作品に価値があるかないかを問いたいのである。
若手二枚目俳優、おまけに歌姫を妻にもつ彼が他の創作者と同等の条件で作品を提示するということ自体がまず不可能なのであり、たとえ名を伏せようともその事実が明るみとなることは、本人も十分わかっていたはずである。
仮に彼の書いた作品が文学として優れていたとしても、世間はあくまで、それを二次的な結果として捉えることになる。つまりは、世間は「彼」そのものに興味があるわけで「彼の思考」には興味を示さない。水嶋の本がすばらしいと感じても、それは「すでに存在していた俳優水嶋」に対する賞賛であり、作品に価値を示すことにはならないのです。
多くの創作者が作品で示してきた自身のアイデンティティに対して、彼の場合はアイデンティティがすでに作品を凌駕しているのである。彼がイケメン俳優としての地位を捨ててでもl、真に「創作」というジャンルに没頭したいというのであれば、この先10作20作と世に送り出すことを続けるしかない。ここで世間の騒ぎに嫌気がさし、筆を投げ出すようであれば、「金と時間をもてあましたガキの道楽」で終わることとなる。それでは若槻千夏の放浪と大して変わりはない。
水嶋ヒロの価値が問われるのは、今回の受賞作ではない。この先の彼の生き様にある。頭を抱え、葛藤し、尚もそれを追い続けることへの矛盾と戦い続けたその時、彼の著作は自ずと僕の本棚に並びはじめるであろう。
☆
さて、水嶋氏の話に触れた理由ですが、現代は実にさまざまな方々が本を書いているということを言いたかったわけであります。今回は読書日記というより願望です。
僕が小説を書いてもらいたいと思っている人間、その二人が「福本伸行」と「古谷実」です。周知の通り彼ら二人はともに漫画家です。
冒頭で挙げた「最強伝説黒沢」と「ヒミズ」。この二作はともに共通のテーマがあります。
持たざる者はどう生きるべきか
ということです。例えば福本氏の「最強伝説黒沢」は、何の取柄もない中年男性の話です。そしてこういう人間は当たり前のことですが、どこにでもいます。彼らが何らかの飛躍を望んだとしたら、どのような答えがあるのでしょうか?本屋に並んでいる自己啓発本などには、その答えは一切書かれていません。大半が若い連中に、それも平均的な家庭で育った大卒のサラリーマンへ向けられた言葉です。例えば一般企業に勤める年収400万の若者が、どうすれば更に上へ行けるのか?などといった馬鹿丸出しの本ばかりなのです。そんな恵まれた人間など放っておいても出世する奴はするし、独立したい奴は勝手に独立するでしょう。
世の中には、年収200万以下の高卒中卒独身、非正規社員の40代という人間もザラにいるのです。彼らが人生を逆転させるには、相当な努力や運が必要なのは誰が考えても明白です。本屋に置かれた自己啓発本には、そんなことは一切書かれてはいないのです。完全に無視し、切り捨てられているといっても過言ではないでしょう。福本氏は、そういった「切り捨てられた人間」への答えを示そうとしたのではないでしょうか。
「最強伝説黒沢」は一見ギャグ漫画とも思われるような描写が目立ちますが、その滑稽さこそが「人間」そのものであり、僕は初めてこれを読んだとき、福本氏はだいぶ前からこういうものを描きたかったんじゃないかという気がしてならないのであります。福本氏の漫画は主にギャンブルですが、実際は「ギャンブルを媒介した人間」の漫画です。彼は一貫して「人間」を描き続ける。福本氏の漫画を読むと、ギャンブルは、人間の本性が明るみとなる行為としての「材料」に過ぎないような感じがします。彼が真に描きたいのは「人間」であり、それを表現するのに「ギャンブル」が都合が良かったのではないかと思われます。
一方「古谷実」は、稲中卓球部で有名な漫画家ですが、彼は突如作風を変え、ギャグ漫画からは完全に離脱したストーリーを描き続けています。先に挙げた「ヒミズ」は父を殺した貧しい少年の放浪記で、彼は世界と自分の距離を痛烈に感じながら苦しみ続けます。古谷氏もまた「持たざる者」への執着を垣間見せる。ほとんど絶望的といってもいいような出自の人間は何を持って救われるのか、ということを問います。
この二作の漫画は、ともに主人公の「死」で幕を閉じます(実際は死んだかは定かではない)。
中でも古谷氏の描く漫画は凄まじく、「ヒミズ」以降も現代における「日陰」の人間を軸とするテーマに徹している。この作風を好ましくないと考えるファンも少なくないとは思いますが、僕はむしろ「稲中」以降の古谷氏を高く評価しています。
両者が抱えているテーマは、やはり「アウトサイダー」であり、歴史的にも多くの文学者が問題としたジャンルです。僕がこの二人に小説を書いてもらいたいと思う理由は、「アウトサイダー」の追求には、漫画では表現の制限が厳しいということ、連載という形では初期段階のプロットに大きなズレが生じることにあります。
いわゆる「アウトサイダー文学」を読みたければ、ドストエフスキー・アルベールカミュといった海外作家でも読めばいいだろう、などと思われるかもしれませんが、海外の思想はまず「神」「宗教」が大きな問題となります。
「宗教無き国」である「日本」そして「現代」が舞台であるものが読みたいのです。
福本氏、古谷氏の漫画は共にすばらしく、漫画でなければできないことをしっかりやっているわけでありますが、僕は彼らの更に深い所、まだ秘めていると思われる「世界に対する疑念、憎しみ」に興味があるのです。そういった闇の部分を予感させた作品が「最強伝説黒沢」と「ヒミズ」です。