おはようございます😊

昨日までの「和歌山県の道の駅シリーズ」をお読みいただき
ありがとうございました。

ついでといってはアレですが、せっかく寄ってきたので
本日は和歌山城について書かせてください🙇‍♀️

歴史が長いだけに一回ではまとめられないので、複数回に分けさせていただきます。




和歌山城 (別名 虎伏城) は、虎伏山(とらふすやま)に天守閣が立つ和歌山県のシンボル的存在です。

天正13年(1585年)に紀州を平定した豊臣秀吉が、弟の秀長に築城させたのが始まりです。

その築城を担当(普請奉行)したのは、築城の名手「藤堂高虎(とうどうたかとら)」です。

当時、"若山" とよばれたこの地に、わずか1年で完成させ、この時に "和歌山" とされました。

まず、秀長の城代として「桑山重晴」が入り、慶長5年(1600年)には、関ヶ原の戦いで

功をたてた「浅野幸長(あさのよしなが)」が入城。

そして、元和5年(1619年)には徳川家康の十男「徳川頼宣」が入城し、紀州55万5千石の城となり、

以来、水戸、尾張と並び、徳川御三家のひとつ「紀州徳川家」として長い歴史を刻んできました。


和歌山城の石垣には、紀州特産の青石(緑泥片岩)が多く使われています。


しかしながら明治4年(1871年)、「全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方(通称 廃城令)」

により廃城となり、多くの建造物が解体もしくは移築されました。


二の丸御殿は大阪城へ移築され、大阪市迎賓館(紀州御殿)として使用され、

戦後に米軍施設として使用中、失火により焼失してしまいました。


天守など11棟は残り、昭和10年(1935年)に国宝保存法に基づく国宝に指定されました。


しかし、昭和20年(1945年)7月9日の米軍による大規模な爆撃(和歌山大空襲)により

天守など11棟の指定建造物は全て焼失してしまいました。



昭和32年(1957年)、岡口門とそれに続く土塀が国の重要文化財に指定され、

翌 昭和33年(1958年)に天守閣が東京工業大学 名誉教授「藤岡通夫」の

指示により、鉄筋コンクリートで再建されました。


昭和58年(1983年)には、明治42年(1909年)に老朽化で崩壊していた

大手門と一之橋が復元されています。



☆ 国宝に指定されながらも焼失した建造物

〇 大天守

〇 小天守

〇 北西隅櫓

〇 西南隅櫓

〇 楠門(櫓門)

〇 北東多門(単層櫓)

〇 北西多門( 〃 )

〇 西多門( 〃 )

〇 南多門( 〃 )

〇 東倉庫

〇 西倉庫



城郭内にある西之丸庭園は江戸時代初期の大名庭園で、秋には紅葉が見事です。


では一之橋を渡り、大手門から城内へ


大手門を抜け、石畳をまっすぐ歩くと、進路はかぎ状になり

そこに中門があった場所で、門は残っていません。



そこには「虎伏像」が鎮座ましております。


和歌山城の立つ虎伏山は、その形状が "虎が伏せている" ように見える

ことから名付けられています。


虎伏像を過ぎて緩やかな坂を登っていくと、先に見える階段が現れます。

通称「表坂」


結構急な階段を上がると「松の丸」を超え「七福の庭」に。


この「七福の庭」は、紀州徳川藩の藩祖であった「徳川頼宣」が元和7年(1621年)に

本丸御殿につくった庭を、水道貯水池の設置のためにここに移設したもので、

七福神に似た名石を巧みに配して宝船を模したものとされています。


息が上がってきますので休憩しながら進みます。


天守が近づいてきました。

背中側には本丸御殿跡(現 展望所)がありますが、階段と石垣しかありません。


今日はここまで。


明日は天守閣に入ります。


最後までお読みいただきありがとうございます🙇‍♀️