人はなぜ山に登るのか。

そこに山があるからだ。

人はなぜ恋に落ちるのか。

そういう人と出会ってしまったから。

 

 

じゃあ、人はなぜ壺を買ってしまうのか。

そこに壺があるから、じゃないから困るんですよね、この場合。

最近のトレンドは壺じゃないかもしれないけど。

 

祥鈴庵圓珠です。

 

宗教や霊能っぽい人に言われて

本来の価値にそぐわないアイテムを買ってしまうというのが

社会問題になったことがありました。

 

確かによくない。

 

今もこういうビジネス滅びてないですね。

まあ、正直儲かるからでしょうけど。

 

スピリチュアルや宗教っぽいことというのは、

現実世界で確実に裏付けが取れるものではありません。

宗教やスピリチュアルがうさんくさがられるのは、誰もが認める確実な証拠を

示すことができないからで、

こういうことは多少うさんくさがられてるくらいでちょうどいいです。

 

 

このへんにもちょっと書いてる。

 

僧侶になる勉強のなかで亡くなった方のご供養の作法を習ったのですが

「これで成仏したかどうかはどうすればはっきりわかるんですか?」

という質問をした人がいました。

 

この質問したくなる気持ちはわかるなあと思うんですが、

その時同時に浮かんだのは

そういう疑問があるなら、それを引き受けちゃダメだろうな

ということでした。

 

仏さまのお力がこの世界に現れる時というのは

行者の功徳力と、如来の加持力と、法界の力が一致した時。

 

行者は自分の功徳力によって、お願いした目的のために

如来が衆生を救おうとしている加持力と

それらを受ける法界の力

その全てを動かして働いてもらおうとしているということになります。

 

何よりもその基盤にあるのが、「信」です。

 

仏や、仏法や、作法や、それを行う自分や。

あらゆるものに対する信があることが、全ての前提。

 

これは、普通の人でも同じです。

 

自分が功徳を積んで、

助けてくれるものを信じて、

環境を整えた時、

意図した結果が現れる。

 

お金を出すということは、仏教にも「財施」という考え方があるように

功徳を積む一つの方法ではあります。

 

その対象は、貧者や僧侶など。

お金を必要としている援助の必要な人や組織。

衆生を利益する教えを授けてくれる僧侶やお寺。

公共の福祉に資することによって功徳を積むことができます。

 

これは決して、対価ではないのです。

 

もし、自分と自分の信に信頼を置くことができ、

功徳としての財施を行って入手したものなら、

それはどんなアイテムでも、あなたの力になってくれるでしょう。

 

自分に信を置くというのは、今現在の不安や迷いの中にある自分にではありません。

自分の中にいる、素晴らしい自分。

スピリチュアル的には、光や愛の本質である自分。

仏教的には、如来の可能性をもつ自分の心の真髄。

そういうものに対してです。

 

迷ってもつまづいても、

アイテムや他の立派な誰かではなく、

最善を求めて今日を生きている自分をこそ、

信じてください。