小学生の低学年までは、肉という食べ物が食べられなかった。でも肉が嫌いと

言ってもハンバーグやミートボールは大好きだった。そのままの肉が食べきれない

というものだった。では魚はどうか?

焼き魚は食べられた。でも寿司屋さんへ行って生の魚は食べられなかった。

てっちりもだめだった。(大阪では“ふぐちり”の事を“てっちり”という。)

そんな大嫌いばかりの自分が大好きな食べ物がある店があった。それはレストランだ。

もちろん店の名前は別にあったと思う。でも看板に大きくレストランと書かれていた

ので店の名前はレストランと思っていた。

その店は、今で記憶しているのは店内に入ると蝶ネクタイをした店員さんが

ウエイターをしていて店の中は薄暗く、机は全て丸テーブルというのを覚えている。

いつも両親に、「今日は何たべるの?」と決まり文句を言っていた。その時に

「今日はレストランに行こか(^^)」と言われたときの嬉しさは今考えても何で

それだけ興奮したのかわからないぐらい喜んでいた。


 車に乗って一駅分ぐらい走った所にお目当てのレストランが見えてくる。まず

その店を最初に見つけるのは助手席に座る母親の上に座った自分の役目!到着する

と蝶ネクタイのウエイターさんが出迎えてくれる。ではその店で何でも嫌いな自分

が何を頼んだか?というと記憶がまったく無い。というのがいつも頼む物が違った

からだと思う。その理由が頼んだ物を食べないからだ!何をおかしな事を書いてい

るんだと思う人は多いと思う。実はそのレストランで料理を頼むと必ず湯気を出した

そそぎたての白いご飯が真っ白いお皿の上にのって出てくる。それは毎日お茶碗で

ご飯を食べていた自分には衝撃的なご馳走に見えた。さらに大きなお皿の上に

何か一品料理がでてくる。多分ヒレカツ等の料理だったと思うがそれを食べるのは

両親と姉だ!でも決して虐待されていたわけではない。自分はその横に付け合せで

着いてくるサラダが大好きだった。長~くほそ~くとがったキュウリが2本。

今でも自分では絶対作る事はムリである極細のキャベツ。上にかかったサラダドレ

ッシング。さらに塩を振る。もちろんライスにも振る。父親がそうしていたから自分

もそうした。それがご馳走だった。父親は絶対にそのキュウリはくれないが母親は

1本くれた。だから自分は必ず3本はキュウリを食べれる。多分年齢が9つ上の姉

には悔しい時だったと思う。そうやって甘やかされて育った。今で言うとその店は

洋食屋さんという分類に入るのではないでしょうか。自分の記憶の中で小学校4年

生の時に焼肉が食べれるようになってご馳走が焼肉へと変わった時、その店に足を

運ぶ事がなくなった。


 もうすぐ中学に入学する少し前に自宅から遠くの塾へ自転車で通うようになった。

その塾はレストランの近所だ!ある時レストランの店の名前が気になり記憶をたど

って走ってみた。遠くからもブルーの背景にカタカナでレストランと書かれた看板

が見えてきた。なぜか興奮している自分が居た。

でも店まで着たが看板はあるがあのレストランはもう無くなっていた・・・。