今はどうなってるのか、さほど知りもしないのだが、
一昔前のコギャル言葉というのは、ある意味で的を得ている表現方法だと感じる。

「○○じゃね?」
「○○っしょ?」
「超いけてない?」

ポイントは語尾だ。

疑問で終わるということは、この言いたい事柄をこうだと
決め付けているわけではないし、相手に意見を求めているようである。


諸行無常の響きあり。

万物は、常に変化する中で、ある1点の状況だけを捉えて
100%に近い肯定をする大多数の大人や子供に比べても
ずいぶんとまともな表現方法である。

「○○だよ。」

と言われたところで、自分からすれば「△△」である。

大多数の大人とは、決まって軽い対立が起きる。

「いやいや、これがこうこうだから、○○だって」

自分も○○だと同意することもあるが、
現状が○○だとしても、明日か、1ヵ月後か、10年後かは、
「△△」どころか
「□ □ 」の可能性すらある。

そんな強い断定をどうしてできようものか。

さらにひとつのポイントだけでどちらか一方だと
決めれるものは、ほとんどない。

こっちの面では、○○だけど、あっちの観点からすると
△△である。

というようなことがほとんどなのだ。

完全に価値観の相違であり、そもそも価値観というものが
個人的価値の大きさの違いなのだとしたら、
譲歩することや、人の意見を取り入れてみる、聞く耳を持つなどの
姿勢がないと、つき合わせてもまったく意味のないことになる。


ただし、その点、コギャルだと、そのあとは

「マジで?」

で終わる。

「自分は同意できないが、あなたはそう思うんだ。なるほどね。」 で
終わっているのである。

すばらしい姿勢だと感じる。



ニュートンの「物体は形を変えれど、質量は常に一定である」という法則がある。

これは、人の心にも適用されると考える。

人と人(時に企業と企業でもよいが)というのは、
相対するシーソーのような物に乗っているのである。


あくまで例えであるが
中央部分を 0 とすると 左右に 100づつメモリが振られているようなもの。

この数字は、心への影響度とでも言おうか。
Mental Point = MPとでもしよう。

どのような理由であれ、一方が、影響を与えれば、他方は影響を受ける。

振り幅が大きければ大きいほど、両者は対立しているということになろう。

常に容量は、100と仮定する。

いじめによる自殺や、仕返し殺人や、精神病などは、
一方のMPが100を振り切った状態にて起こりうるといえる。

周りに話す人がいたり、親が助言してくれたりすれば、
1度MP100を振り切ったとしても、またMP70くらいに戻してくれるかもしれない。

周りの支援ががまったくない状況だと、何をしでかすかわからない状態に突入する。

これは、家族間であっても同じ法則が適用される。
もちろん安定しやすく、影響度も小さい。
ただし、これすら、100を振り切ると、何が起きるかはわからない。

戦争状態なんかは、無理やり国が一般国民のMP100を振り切らせ
相手もMP100を振り切っている状態。

シーソーの両端が、交互にガンガン地面に、アタックしているような状況であろう。

そして一人の人間というものは、生きていく中で
常に、おそらく何百という他対象に対して
このシーソーゲームを行っている。
そして本体が持つMPはただのひとつなので、何百すべての+-の影響が
一つの心に影響する。
毎日毎日というか、毎秒毎秒であろう。

他対象だけでなく、自分自身の心に対してですら、1個の他対象になっているだろう。


お互いMP0であるか、
また波があれど、平均値が MP0 に程なく近い状態が一番良い状態だ。

つまるところ、ニュートラル状態である。


この思想論は、MP90相手に与えているから、優しくしなさいだとか、
MP0でいることを心がけなさいだとか、いう事を説くものではない。

世の悩みを解決するような代物では、決してない。

この増えすぎた人類が、時に殺しあう(ビジネスもある意味殺し合いである。)
現代においてそんなのどだい無理な話である。

MPなんて、空想の単位である。

ただ、こうしたから、相手がこうなっているとか、
ああしたから、状況がこうなっているなどを理解することはおそらく大切であり、
この比喩法は、生きていく上で、目に見えない心の闇を
感覚的空想数値化することにより、現実把握をし、
心を落ち着かせたり、打開策を見出すためのきっかけとも
なりうるのではないか、と考えるのである。



そして、シーソーを題材に用いたのは、決して
思想と掛けたものではないことをここに宣言する。